永遠の命に至るパン・イエス

「永遠の命に至るパン・イエス」 八月第三主日礼拝  宣教 2024年8月18日

 ヨハネによる福音書 6章32〜40節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。強くて大きな勢力をもった台風が過ぎ去り、昨日は雲一つない青空が広がりましたが、猛暑が戻ってきました。今週は、雨が降る日も多いようですので、暑さをしのげるかと思いますが、蒸し暑さは続くようです。どうぞお気をつけてお過ごしください。

 

今朝の礼拝は、神様の愛とイエス・キリストの福音を韓国から届けに日本へ来てくださった青年の伝道チームをお迎えし、特別賛美を歌って主の栄光をあらわしてくださいました。ありがとうございました。今回賛美してくださった曲の一つは、日本の賛美で、夕礼拝でもよく賛美している「花も」という賛美で、韓国で一番賛美されている曲です。わたしは、ユーチューブで韓国の若者たちの木曜礼拝でささげる賛美の様子を毎週見るのですが、この「花も」はよく賛美されていて、とても嬉しくなります。

 

韓国には素晴らしい賛美・プレイズソングが他にも数多くあり、わたしの個人的な願いと祈りは、それらが日本語に訳されて、日本の教会で親しまれてゆき、日本のクリスチャンたちがそれぞれの教会の礼拝や賛美集会で主にささげられることです。夕礼拝でも日本語に訳された韓国のプレイズソングを賛美していますので、ぜひご出席いただければと思います。

 

さて、「神様の御心を探し求める」シリーズを進める中で、ヨハネによる福音書に注目して聴いています。4つある福音書の中で、このヨハネ福音書には、神様の「御心」という言葉が最も多く用いられていて、わたしたちに対する神様の御心を知ることが出来ます。御心を知る事は、神様に喜ばれる生き方をする、神様が望まれる通りに生きることに直結します。

 

1章では、わたしたちは神様の御心によって生まれた存在であることを聴きました。4章と5章では、主イエス様は、3度の食事よりも父なる神の御心を行い、救いの御業を成し遂げることを大きな喜びとし、十字架の死に至るまで、イエス様は神様の御心に忠実に従ったということを共に聴きました。それは、わたしたちを救い、永遠の命を与えるための業でした。

 

神様の御心とは何か、という質問に対して、ヨハネ福音書3章16節と17節を引用しました。すなわち、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とある通り、この世に生きるわたしたちを救うことが神様の御心であり、真理であることを聴きました。この言葉に、神様が御子を救い主としてわたしたちのもとにお遣わしくださった目的と真意があります。

 

今回のヨハネ福音書6章にも、「御心」という言葉が繰り返し用いられます。しかし、この6章で「御心」という言葉よりも、もっと頻繁に出てくる言葉があります。それは「パン」という言葉です。6章1節から15節には、イエス様が五つのパンと魚二匹を用いて男だけでも5000人を養う有名な奇蹟が記されています。自分たちを満足させたイエス様を、群衆は預言者と呼び、自分たちの王にするために連れて行こうとしますが、イエス様はひとりで山に退かれます。それは、イエス様は、預言者でも、王でもなく、イエス様を信じる人々を救い、永遠の命を与えるために神様から遣わされたメシア・救い主であるからです。

 

さて、今回ご一緒に聴く箇所が含まれている6章22節から59節では、「はっきり言っておく」という言葉をイエス様はなんと4回も発しておられます。とても重要なことをお話しする時の前置きの言葉として、イエス様が必ず「はっきり言っておく」と言われます。すなわち、この箇所は非常に重要な箇所であるということです。そのことをぜひ覚えてください。

 

最初と二番目の「はっきり言っておく」が26節と32節にありますが、イエス様が与えてくださったパンで満腹した群衆に対して、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われ、神様から与えられるパンをただ受け続けるだけの体質、恵みを受け続けるだけの姿勢を改め、神様の御用のために率先して働く姿勢を持ちなさいと励まします。いつまでもお客様体質ではいけないのです。

 

ここで、エジプトから約束の地カナンへの旅路の中で、神様がイスラエルの民に与えられた「マンナ」というパンのことが取り上げられていますが、このパンは神様が憐みをもってイスラエルの民全体に与えてくださったもので、民が働いて得たものではありませんでした。イエス様は、群衆に対し、いつまでも受け身で、消費者体質でいることを止めて、もっと積極的に神様の業に励み、神様の御用のために働きなさいと叱咤激励をします。

 

群衆は、28節で、イエス様に対して、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と質問しますが、それに対してイエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えます。群衆が「神の業」という時、ギリシャ語聖書では「業」(エルガ)は複数形になっています。しかし、イエス様が「神の業」という時、「業」(エルゴン)は単数形になっています。ユダヤ人たちは、神様に喜ばれるために自分たちがしなければならない業は数多くあって、613ある律法を一つ一つ守ることだと考えていたのに対して、イエス様は、神様に喜ばれる業は一つしかない、それは「神がお遣わしになった者、イエス様をメシアとして、救い主として信じること」だと言われるのです。

 

わたしたちは、ユダヤ人と同じように、何か良い業を人よりも多くすることで救われると思い込み、良い業に頑張って取り組みます。しかし、良い業をすべて出来ない自分の弱さ・無力さに直面し、自分に幻滅し、神様を信じる信仰から遠ざかってしまうことがあります。しかし、イエス様は、わたしたちの弱さを百も承知です。ですから、「自分の力に頼らないで、わたしを信じなさい」と招かれるのです。「わたしがあなたのために神様から遣わされた救い主だよ、わたしを信じて従いなさい」と優しく招いてくださるのです。

 

イエス様を救い主と信じること、それが神様を喜ばせる唯一最高の業です。天でも大きな喜びがあります。わたしたちにとっても、喜びと感動が与えられる恵みです。しかし、わたしたちにとって、信仰生活の中で最も困難に感じることは何でしょうか。それは、残された生涯を通してイエス様を信じ続けるということではないでしょうか。この日本でも様々な方法で福音の種蒔きがなされ、多くの人たちがイエス様を信じましたし、今も信じて従おうとしている人々や救いを求めている人たちが大勢いるのです。しかし、サタンは様々な方法を屈指して信仰を奪い去ろう、神とその愛から遠ざけようと仕掛けてくるのです。煌びやかな物を見せたり、甘い言葉をささやいて誘惑し、神様とイエス様から引き離そうとするのです。

 

わたしたちが信仰生活の中で最も困難に感じることは、イエス様を信じ続けるということではないでしょうか。わたしたちは、自分に自信がない、信仰を持ち続ける自信がないのです。神様はそのようなことはよくご存知ですから、イエス様と聖霊をわたしたちの近くに派遣してくださったのです。ですから、神様の憐れみを信じて、イエス様と聖霊がいつも共にいて助けてくださり、サタンとの戦いにも共に戦ってくださり、勝利を与えてくださることを信じて、一日一日を主と共に重ねてゆくことが生涯を通して信じ続けることになります。

 

イエス様を信じ続ける方法、それは「わたしは命のパンである」と言われるイエス様の命をいただくということです。イエス様の十字架を常に見上げて、イエス様の十字架の死はわたしの救いのため、わたしの罪を贖い、わたしを罪と死の恐れから解放し、神の子とし、永遠の命を与えるためであったと信じて、感謝し、主をほめたたえ続けることです。

 

イエス様は、6章35節で、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われます。聖書を読む中で、イエス様の言葉を聴き、命の糧、命の水として朝昼晩、いつも受けて養われ、成長を得ることです。その繰り返しが信じ続けることであり、喜びに満たされた人生、神様が喜ばれる生き方になります。

 

神様が今も生きて働いて、その愛の御業を成してくださっているのを見ているのに、それを無視して信じない者になり続けないように、今日、悔い改めてイエス様を信じる者、イエス様に聞き従う者とされてゆきましょう。神様とイエス様に対する思いはまだ堅くない、まだ信仰に至っていないと自分の弱さばかり見るのではなく、わたしたちを愛し、新しく造り変えてくださると約束してくださるイエス様だけを信じて、イエス様の招きに応えましょう。37節に「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」との硬い約束と励ましがあります。また39節に、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」とありますように、イエス様がわたしたちの手を握ってくださったら、そのつながりは決して切れることはありません。神様の愛に結ばれるということは、そのような強い愛に生かされるということです。

 

40節の「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」という言葉は、ヨハネ3章16節と17節をイエス様なりにリフレイズされた言葉です。救い主イエス・キリストは、ご自分の意志を行うためではなく、父なる神様の御心を忠実に行うためにこの地上を歩まれました。イエス様を救い主と信じるわたしたちも、この地上で恵みに生かされている間、神様とイエス様の御心を行う者として歩み、永遠の命に至るパンを分かち合う者として生きましょう。