ルカ(103) ぶどう園と農夫の譬えを話すイエス

ルカによる福音書20章9節〜19節

ルカ福音書によりますと、イエス様は、19章28節から44節でエルサレムに入城され、最後の6日間を歩まれます。19章45節から21章38節では、神殿から商人を追い出すことから始められ、エルサレム神殿内での様々な活動、民衆への教えが記録されており、復活やダビデの子についての問答が祭司長たちと繰り返され、最後の21章5節から38節では、神殿の崩壊、弟子たちへの迫害、エルサレムの滅亡ついて予告がされてゆきます。

 

イエス様の十字架の死、贖いの死が刻々と差し迫っている分、福音書の内容も非常に重たい内容になってゆき、わたしたち人間の根本的な弱さ、罪とその報酬について触れられてゆく中で、神の裁きについても触れられる場面が多くなります。この世の地位や名声や権力にしがみつき、傲慢のまま、自分の罪を悔い改めない人たちは、神の裁きによって滅び去ってゆくことが記されていく中で、しかしそれでも神様はわたしたち人間を愛し続け、イエス様を救い主と信じて救われることをひたすら待ってくださるということがこの箇所の重要要素となっています。イエス様の言葉を通して自分の弱さに気付かされ、悔い改めて神様に立ち返る者を神様は救われ、神の子とし、神の国へ、神の許へ招かれるのです。

 

今回の20章9節から19節は、イエス様が「ぶどう園と農夫たち」の譬えを人々に語られる箇所です。9節に、「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた」とありますが、19節を読みますと、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」とありますように、その譬えの内容は、イエス様に対して好意的で心の柔らかい「民衆」ではなく、心の頑なで批判的な「律法学者たちや祭司長たち」に対して語られたものになっているということを覚えながら読む必要があります。

 

4つの福音書には「ぶどう園」がよく出てきます。ぶどう園は、イスラエルの国を指しています。ぶどう園の主・オーナーは神様で、そのぶどう園を任せられ、そこで働く農夫たちはイスラエルの民です。ここには神様とイスラエルの間に契約が結ばれます。これは旧約の時代から受け継げられてきた神様とイスラエルの民の契約の関係性を伝えるアナロジーです。今回のイエス様の「ぶどう園」の譬えの背景にあるのは、旧約聖書イザヤ書5章1節から7節(p1067)ですので、今回の譬えと合わせながら読んでゆきたいと思います。

 

イザヤ書5章1節に、「わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた」とありますが、神様は肥沃な土地にぶどう園を所有していたということです。そして2節ですが、神様はただの丘をよく耕され、大小の石をすべて取り除き、良い地に良いぶどうの木(イスラエルの民)をたくさん植えられます。そして、農夫たち(イスラエル)と契約をして、そのぶどう園を彼らに委ね、ぶどうを育てさせ、収穫する働きを任せるのです。

 

栄養豊富な土地ですから、ぶどうの木はグングン成長し、最高のぶどうが実ることが期待されました。豊かな収穫を期待して、畑の真ん中には見張り台が建てられ、防犯の備えも万全です。イスラエルの民が成長し、良いぶどうの実を多く結び、大量のワインを生産することを期待して酒ぶねも準備しました。神様は、ただ楽しみに待つだけでした。

 

しかし、イスラエルの民が結んだのは「酸っぱいぶどうであった」のです。酸っぱいとは、高ぶり、傲慢さ、自己中心的な考えや振る舞いを指します。神様の期待に添い、神様を喜ばす実を何も結ばなかったのです。神様は3節と4節で、「3さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか」と言われます。

 

「わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか」という神様の問いかけは、イスラエルが良いぶどうを結ぶために、神様は愛と配慮と働きをもって素晴らしい環境を整えてあげたということを強調するものです。

 

しかし、7節に、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。 正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)」とあります。神様がイスラエルに期待されていたのは、イスラエルが公平な裁きと正義という良い実を結び、平和を築き、神様を喜ばすことでした。しかし、イスラエルは流血と叫喚という悪い実を結んで神様の期待を裏切ってしまうという預言が旧約の時代にすでにされています。

 

その神様が新約の時代のイスラエルに期待されたのは、今までの罪を悔い改めて、救いのためにこの世に遣わされた救い主・メシアを受け入れ、信じて、神様を安心させることでした。それが神様を大きな喜びで満たすことでした。しかし、イスラエルの高慢な体質は旧約の時代から何も変わりませんでした。新約の時代においても、イスラエルは傲慢であるが故に、神様から遣わされた救い主を拒絶し、その救い主を殺し、神様の心を悲しみで満たすことをしてしまうという預言が旧約の時代にされていたのです。

 

ルカ福音書20章9節に戻りますが、9節に「ある人(神)がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」という「長い旅」というのは、旧約の時代から新約の時代をまたぐ時間を指しており、旧約の時代に預言された神の裁きからイエス・キリストによる終末の裁きの間にはしっかりと期間が確保されてあって、主なる神様は、イエス様という救い主を与えて、イスラエルの民と異邦人であるわたしたちに自分の罪に気付かせ、悔い改めて、神様に立ち返る時間を十分に与えてきたということがあるのです。

 

しかし、猶予として与えられてきた時間が少なくなってきたことを知らせるため、罪の自覚と悔い改めとイエス様を救い主と信じる信仰へと招く「収穫の時」がきたことを教えるために、イエス様はぶどう園の譬えを10節から話されてゆきます。

 

「10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。」とあります。

 

「僕」とは、旧約の時代に遣わされたイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者たちです。他にも大勢の預言者がイスラエルに派遣されましたが、イスラエルはその預言者たちを痛めつけ、去らせます。

 

13節、「そこで、ぶどう園の主人(神様)は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」 と言って、神様の御子、救い主を遣わします。しかし、農夫たち・イスラエルの反応は神様の期待の真逆でした。

 

14節と15節に、「14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」とあります。今では考えられないことですが、当時のユダヤ社会では、農園・畑の主の相続人、つまり息子が死ねば、農夫・小作人たちが主人の死後、畑や農地を相続しうるという慣習があり、そういう浅はかな考えから息子を殺してしまうようになったというのです。

 

しかし、主人はまだ生きています。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか」とイエス様は言われます。そして16節で、主人はぶどう園に戻ってきて「この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と言われるのです。

 

イザヤ書5章5節から6節では、「5さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、6わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる」という神の言葉があります。神様の裁きがイスラエルの民にくだされるということです。

 

ぶどう園の主人は、ぶどう園に戻ってきて、「この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」とイエス様は言われますが、その声を聞いていた人たちが「そんなことがあってはなりません」と言ったとあります。「そんなこと」とは、何を指すのでしょうか。神様の期待を裏切ることがあってはならないのか、役に立たないと思われる人たちを神様が裁かれ、命をとることがあってはならないのか。皆さんは、「そんなこと」というのは何を指していると思われるでしょうか。

 

どちらも神様の御心・願いではないと思われます。神様の御心というのは、救い主イエス・キリストをすべての人が心に迎えて、イエス様と共に歩むということです。神様はわたしたちの死ではなく、わたしたちが生きることを望まれるのです。そのためには、自分の罪を認め、罪を悔い改めて、神様に対して赦しと救いを求める必要があります。この罪の赦しと救いの宣言をイエス・キリストという救い主を通して受けない限り、わたしたちの心に平安も、喜びも、救いもないのです。イエス様は、この譬えを通して、わたしたちを脅そうとしているのではなく、神様の愛と救いの中に招こうとされているのです。

 

さて、17節に「イエスは彼らを見つめて言われた。『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。「家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった。」』 」とあります。イエス様が見つめたのは、イエス様に敵意を抱く律法学者たちや祭司長たちであったでしょう。イエス様はここで詩編118編22節を引用していますが、祭司長たちによって殺され、捨てられるイエス・キリストが隅の親石となって、新しい「ぶどう園」が造られ、新しい「神殿」が建て上げられるということが約束されています。イエス・キリストを信じ、イエス様につながる者たちによって神様の喜ばれるぶどうの実を豊かに実らせ、神様を礼拝する教会・信仰のコミュニティーが建て上げられるということです。

 

しかし、18節、「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」とあるように、神様から遣わされた息子・イエス様をエルサレムの城壁の外に連れ出して十字架に架けて殺した農夫たち・傲慢なユダヤ人たちに対する神の裁きの警告となっていて、悔い改めなかったエルサレムはAD70年にローマによって滅亡してしまいます。

 

ここでイエス様が聞く耳のある者たちに伝えたかった神様の愛は、神様の期待される実を豊かに結ぶという約束を誠実に果たし、神様に喜んでいただくためには、イエス様を信じて、イエス様につながる必要があるということです。祭司長たちのようにイエス様を拒絶するのではなく、神様から救い主としてわたしたちに遣わされたイエス様を信じて、イエス様の声に従うということです。イエス様に聞き従う中で、わたしたちは神様の期待される良い実を結び続けることができ、神様は喜ばれ、わたしたちも大きな生き甲斐、大きな喜びを日々受けながら、神様との平和の中に生きることができるのです。