ダブル(?)スタンダードを捨てて

「ダブル(?)スタンダードを捨てて」 八月第四主日礼拝 宣教 2024年8月25日

 ヨハネによる福音書 7章14〜24節     牧師 河野信一郎

 

ハレルヤ!おはようございます。早いもので、8月の最後の日曜日を迎えました。今朝も恵みに与り、ご一緒に賛美と礼拝をおささげできますことを神様心から感謝いたします。

 

お聞き及びのように、台風10号が強い勢力に発達しながら日本に向かっています。報道によりますと、台風は九州から北海道まで縦断してゆく勢いで、関東地区は火曜日から水曜日にかけて通過するとの予報です。2019年10月に甚大な被害をもたらした東日本台風に匹敵する、あるいはそれ以上の威力のある台風かもしれないと言われています。すでに気象庁から大雨と暴風に警戒せよとの呼びかけが出されていますので、水曜日の祈祷会を休会にすべきと考えています。主のご加護の下、それぞれの生活が守られますよう祈りましょう。

 

さて、次の日曜日から始まります9月は、「教会学校月間」です。日本バプテスト連盟の諸教会が1947年から2000年頃まで成長を遂げられたのは、礼拝と祈祷会と伝道だけでなく、日曜日の教会学校を通して信徒たちに豊かな交わりが与えられ、主の御用を成す者として整えられていったからです。つまり、礼拝と教会学校は教会形成と成長に必要不可欠な両輪です。礼拝前の10時10分から40分までの短い時間ですが、出席者の方々と一緒に聖書を読み、そこから導かれる恵みや教訓を分かち合っています。どうぞご参加ください。

 

9月は創世記後半のヨセフ物語がテキストになります。手前味噌ですが、聖書教育9月号の「毎日のみことば」をわたしが担当しました。各日たった120文字のショートメッセージを聖霊の導きと励まし、教会の皆さんの祈りの中で1ヶ月分準備しました。だからと言っては何ですが、9月は主の日が5回ありますので、まず1回だけでも参加してみてください。

 

さて、8月は「平和月間」です。日本の戦後のこと、沖縄のことなどたくさんの報道がありましたが、ウクライナでもロシアとの戦争が2年半も続いており、終結の兆しすらありません。イエス様が歩まれた土地でも戦争が続きます。パレスチナとイスラエルの間の停戦交渉の先行きも見通せません。協議は「建設的」に前進しているとアメリカの報道官は力説しますが、今もガザで多くの人々が犠牲になり、人質も解放されないままの状態です。世界の至る所を見渡しても、利権拡大の小競り合いが続き、平和とは言い難い状況が続いています。

 

だからと言って、世界の平和を神様に祈り求めることをやめてはなりません。世界の平和は、わたしたち一人一人が神様と和解し、神様と平和に生きることが礎となります。神様との平和を築くためには、まず自分の罪・弱さを認め、それを悔い改め、救い主イエス・キリストを信じて、このイエス様を通して神様と和解しなければなりません。神様との和解を得、神様との正常な関係性を築くためには、わたしたちの心を支配している自己中心的な考え方・思想・価値観・都合をすべて捨て、神様の御言葉に聞き従わなければなりません。

 

今朝の宣教主題を「ダブルスタンダードを捨てて」としましたが、主なる神様と救い主イエス・キリストを信じ、その愛に生かされている者は、「御言葉」という一つだけのスタンダード(基準)を持って生きるべきです。そうでないと人間関係の中で非常に深刻な混乱、もつれ、戦いが生じます。わたしたちが生きる社会は、ダブルスタンダードどころではありません。トリプル、クアドュープル、時にはそれ以上のスタンダート(基準)を持つ人々の力によって支配されています。「スタンダード」という言葉を「フェイス(顔)」という言葉で言い換えても良いかもしれません。家庭、職場、社会の中での人間関係で、多くの人たちは、個人用と対外用の基準を二つ、三つと使い分けるわけです。知恵に富み、非常に器用な人は、幾つもの顔を上手に使い分けて世間をうまく渡り歩くという人もおられるわけです。

 

しかし、そもそもわたしたちは何故そのように幾つもの基準や顔を持ち歩いているのでしょうか。理由はたくさんあると思います。自身が確固たる考えをもっていないがために人々の意見になびいてしまうからでしょうか。大切な事や判断を人任せにしすぎているからでしょうか。誰かを恐れて、正しいことが言えない、行えないからでしょうか。人に嫌われたくない、社会からの孤立、疎外感を感じたくないから八方美人になってしまうのでしょうか。

 

家庭での顔、職場での顔、社会の中での顔を使い分けて何が悪いと言われればそうかもしれませんが、問題はその人の心の姿勢に一貫性があるかということです。つまり、どこを向いていても、誰に対しても、常に誠実に向き合っているかということです。人間というのは、好き嫌いがあります。苦手な人もいれば、家族以上に親しくなれる人もいます。つまり、わたしたちの心に「偏見」はないかということです。もし偏見があれば、それを神様にお委ねして、捨て去らなければ、人間関係の中に平和はないと思うのです。このような考え方は、現実に沿っていないでしょうか。理想的すぎるでしょうか。ご一緒に考えたいと思います。

 

今朝も御心を求めてゆきたいと願っていますが、今朝のテキストはヨハネによる福音書7章14節から24節で、ここにも「御心」という言葉が17節に出てきます。今日のメッセージを端的に、一言で要約しますと、神様の御心を行う姿勢、御心を行いたいという強い思い・願いをわたしたち各自が持たなければ、平和も、愛も、希望も、救いもないということです。神様の御心を行いたいということを求め、祈らなければ与えられないということです。

 

今日の箇所は、10節から読んだほうが良かったかもしれませんが、14節にある「祭りも既に半ばになったころ」とある祭りとは、ユダヤの三大祭りの一つである「仮庵の祭り」です。この祭りは9月から10月に催される秋の収穫祭で、最も喜ばしい祭りとされています。今年の仮庵の祭りは10月16日から23日です。「新生宣教団」のホームページに、仮庵の祭りの意味と目的が記されていましたので、引用させていただきたいと思います。

 

「『仮庵の祭り』は、今から約3千年前、エジプトの奴隷であったユダヤ人の祖先がエジプトから脱出し、解放された後、約束の地(カナンの地)に辿り着くまでの40年間を荒野で仮庵(テント)を建てて生活したことを覚えるため、祭りの期間中(8日間)、実際に自宅の庭や玄関の前にテントを建てて家族と一緒に過ごす祭りです。荒野は水もパンもないところですが、人々は神から『マナ』というパンや水が与えられました。ですから、『仮庵の祭り』はそのような神の恵みを思い起こす喜びと祝いの祭りと言えるのです。」とありました。

 

40年の荒野での生活にあっても、主なる神がイスラエルの只中を共に歩まれ、民の必要を満たし、守り導いてくださったこと、その真実さを思い起こして喜び、感謝する祭り、それがこの仮庵の祭りです。しかし、そのような祭りの最中、イエス様は非常に重要なことを群衆と弟子たちに教えられます。それは旧約の時代、出エジプト記の時代はそうであったが、新約の時代、イエス・キリストがこの地上に来られた時代は、イエス様が救い主としてわたしたちの只中を共に歩まれ、魂の飢え渇きを満たし、救いを与え、神の国へ導き入れてくださるお方であり、神様の愛と真実さが表された恵みの時であるとイエス様は言います。

 

そのような大事なことを仮庵の祭りの四日目、五日目ぐらいに神殿の境内で、イエス様は人々に教え始められるのです。イエス様の教えがあまりにも素晴らしいので、人々は驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書・律法をこんなによく知っているのだろう」と不思議に思い始めたと15節にあります。

 

少し逸れますが、12節を読みますと、イエス様のことを「良い人だ」という人たちもいれば、「群衆を惑わす者だ」という人たちもいたとあります。ユダヤ人の中でも、意見の違いとそこから発展する論争や分裂があったことが分かります。13節を見ますと、「しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」とあります。

 

サンヘドリンという議会では、イエス様を良い教師と公然と語る者を会堂から追い出す、ユダヤのコミュニティーから追放するということが既に決まっていて、コミュニティーから追い出されることを恐れた人々は自分の思い・考えを胸にしまって黙っていなければなりませんでした。人を恐れて、正しいことが言えない、言わない、それがわたしたちのスタンダードです。しかし、わたしたちが畏れなければならないのは、神様であり、聞き従わなければならないのは、神様の御言葉であり、イエス・キリストなのです。

 

16節と17節で、イエス様は、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と言われます。父なる神と自分は一つであり、イエス様の教え・言葉だけでなく、その行い・御業も神様の御心・ご意志と一致していると言われるのです。それが分かるのは、神様を愛し、神様の栄光を求める人、神様の御心を行いたいと心から願い求める真実な人だけだとイエス様はおっしゃり、幾つものスタンダードを器用に使い分け、自分の栄光を追い求める人ではないと言われるのです。

 

大切なことですから、もう少しお話しさせてください。イエス様は19節で、「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない」と群衆に向かって言っています。律法とは何か。律法とは、人々にどのように生きてほしいかという神様の教えであり、ご意志であり、御心です。律法で重要な二つの戒め、それは神様を愛し、隣人を愛するということです。しかし、人々は御心を守らない。愛するどころか激しく批判したり、妬み合ったり、裁き合ったり、挙げ句の果てには神様の愛を示すためにこの世に来られた救い主イエス様に対して敵意・憎しみを抱き、殺そうと企んでいる。ですから、イエス様は、「なぜ、わたしを殺そうとするのか」というのです。

 

律法に示された神様の愛、神様のご意志・御心が本当に分かれば、イエス様を受け入れこそすれば、殺すはずはないとイエス様は言うのですが、人々は、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか」と激しく反論します。自己中心的な基準・価値観・思想・都合を持っている人は、それらに支配されていますから、それらを優先します。ですから、それらが邪魔をして、神様の愛を素直に受け取ることができなくなるのです。

 

22節に、「モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している」とありますが、割礼とはイスラエルに属することのしるしとして男の子が産まれたときにその生殖器に施すしるしです。産まれてから8日目に割礼を行いますが、その8日目が安息日と重なっても、安息日は礼拝以外なにもしてはならないと律法に命じられても割礼を施します。そこにダブルスタンダードがあるように見受けられ、一種の矛盾が生じるのですが、ユダヤ人にとってモーセを通して与えられた律法よりも、アブラハムやその後の族長たちが神様に従うと約束した契約の方が重要であるから、安息日にも行うのです。

 

23節で、イエス様は「人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか」と言われます。イエス様が安息日にベトザタの池の病人、38年間も病気で苦しんでいた人を癒し、苦しみから解放された救いの出来事が5章にありますが、この業は安息日に割礼を施す事、神様との関係性に生かすことと同じことであるのに、なぜ割礼は良くて、癒すことはいけないのかと反問するのです。腹を立てるのは、強い自我や多すぎる基準、価値観、偏見を持っているからです。イエス様は、「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と言われます。正しく裁くとは、正しく見分けるということです。神様の御心を見分けるためには、神の言葉に傾聴する必要があります。神様の御心を見分け、知るためにはイエス様という神の御言葉に絶えず聴く必要があるのです。