ルカ(104) 皇帝への税金について話すイエス

ルカによる福音書20章20節〜26節

今回の学びは、短い箇所ですが、とても興味深い箇所です。エルサレムに入城されてから、イエス様は神殿の境内でずっと人々に教え続けられますが、その群衆の人模様は様々です。イエス様とその教えに好意的な「民衆」と呼ばれる人たち。ただの興味本位、イエス様の癒しや奇跡の業をエンターテイメントのように見たいだけの「群衆」と呼ばれる人たち。その他、イエス様に対して敵意を持つ「律法学者、祭司長たち」がいました。

 

20章を学んでゆく中で小さな発見がありました。福音書の記者ルカは、イエス様が取り扱う話題に応じて、律法学者と祭司長たちの順番を変えています。例えば、19章45〜48節は、イエス様が神殿で商売をしていた商人たちを追い出す場面ですが、「神殿」に関わる出来事ですので、「祭司長、律法学者」という順番です。続く20章1節から8節は、神殿での「権威」がトピックなので、ここも「祭司長、律法学者」の順になっています。

 

しかし、続く9節から19節のぶどう園を舞台とした譬え話では、「暴力、殺人、相続権、契約違反」など律法に関する事案なので、順番は「律法学者、祭司長」の順になっています。この順番を知るだけでもそれぞれの箇所の話題が何であるかを少しでも分かることが出来るので、とても興味深いと思います。

 

今回の箇所では、律法学者と祭司長のどちらが最初に記されているのかと思いましたら、まんまと裏を突かれ、彼らによって派遣された「回し者」が登場します。この「回し者」は複数いたことが21節の「回し者ら」という言葉で分かります。この人たちは、20節によりますと、「正しい人を装う回し者たち」です。ある牧師は、彼らを「スパイ」と呼んでいましたが、わたしは、「工作員」と呼びたいと思います。スパイ映画に出てくるような派手さは彼らにはありません。彼らは、けっこう狡猾で、悪賢い回し者たちです。

 

次に注目したいのは、今回の箇所には、イエス様に対する敵意を表す言葉が多く出てくるという点です。20節には、「機会をねらっていた」とありますが、それはイエス様を陥れる機会を狙っていたと云う意味です。20節には他にも、「回し者」、「イエスの言葉じりをとらえ」、「総督の支配と権力にイエスを渡そうと」あります。また、23節には「たくらみ」と云う言葉があり、26節には「イエスの言葉じり」と云う言葉が再度出てきます。「回し者たち」とは、「陥れる者たち」という意味になります。

 

さて、イエス様の十字架までの最後の数日の中で、「税金」と云う話題が唐突に出てきます。不思議に思われるかも知れませんが、20章19節に、祭司長や律法学者たちは「イエスに手を下そうとした」とあります。彼らの思惑は、イエス様を訴えて捕えるための口実、理由を作り、総督に訴えることでした。

 

ルカ23章1節から5節に、イエス様が総督ピラトの前で尋問を受ける箇所がありますが、そこで大祭司たちに煽動された群衆が叫んで、「この男(イエス)は、わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」と訴えます。

 

福音書の記者ルカは非常に賢いので、大祭司や律法学者たちの「わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じた」という真っ赤な嘘を強調させ、彼らがいかに悪意に満ちた人たち、神様の愛を拒絶する人たちであるかをわたしたちに示し、同時にイエス様は真実な方であることを記録するために、今回の20章で税金の話題を取り上げ、税金に関してイエス様は実際にどのように教えられたのかを記すのです。

 

さて、今回の学びのテーマは「税金」です。新共同訳聖書では、「皇帝への税金」という小見出しが付いています。日本でも、アメリカでも、どこの国でも、わたしたちが生活する市町村に納税することは市民の責任であり、国へ納税することは国民、またその国で生活する者の責任です。わたしたちが支払う税金によってわたしたちの生活の質は常に守られ、向上する仕組み、約束となっているはずです。

 

しかし、わたしたちの税金・血税がとんでもないことに使われることが多々あり、納税したくないという気持ちにさせられる時が時折あると思います。税金として集めた資金を、注入すべきところに注ぎ込まれないで、まったく不必要な所に政治家たちがばら撒くことが多いわけです。

 

イスラエルは、紀元6年からローマ帝国に支配され、属国となっていましたので、ユダヤ人成人である14歳から65歳の男性は、1デナリオン銀貨を税金として毎年納めなければなりませんでした。デナリオン銀貨はローマ帝国の通貨です。イエス様が当時33歳だと推定して、紀元6年から33年までの27年間、すでに四半世紀に亘って税金をローマに納めていたと云うことになります。つまり、ユダヤ人たちにとっては、デナリオン銀貨はローマ帝国への納税のためだけの通貨であったのです。

 

1デナリオンは労働者1人の1日の労賃に相当しますので、そんなに目くじらを立てるほど大きな金額ではありませんでしたが、ユダヤ人たちは暴動を起こすぐらい、この納税に強く反発しました。その理由として、1)当時、神のように崇められていた皇帝カイザルの肖像が彫刻された銀貨を使用することは第二の戒め、「あなたはいかなる像も造ってはならない。それに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という戒めに抵触すると考えたと考えられます。

 

もう一つの理由は、2)カイザルの貨幣で納税するのは、選民として、隷属を意味するので受け入れ難いと云う抵抗感があったということです。ある注解書には「これは単に占領者へ金を払うと云う民族主義を刺激するだけでなく、ユダヤ人にとっては異教の神を礼拝する呪われた者へ金を貢ぐという憎むべきことを意味していた」とありました。

 

さて、20節と26節に「イエスの言葉じりをとらえ」という言葉が出てきます。言葉じりを捉えて揚げ足を取ったり、間違いを追求してくる人は、わたしたちの周りにもいますが、この箇所で興味深いのは20節の「言葉じり」は「言葉(ロゴス)」というギリシャ語が使われ、26節の「言葉じり」には「話(レーマ)」というギリシャ語が使われています。祭司長たちは、イエス様の「言葉」と「話」からもローマの総督の支配と権力に訴えられるものを見つけることは出来なかったということですが、イエス様の言葉も、話しも、神様から示された真実の言葉だけを語るので、イエス様には間違いがないのです。

 

21節の「回し者らはイエスに尋ねた。『先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています』」というのは、工作員たちの心にないお世辞です。

 

ここで、「えこひいきなしに」という表現がありますが、この表現は裁きの時に「賄賂を取らない」という意味があります。申命記16章19節20節(旧約p307)に、「裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分を歪めるからである。ただ正しいことのみを追求しなさい」という命令があります。「えこひいき」という言葉に、次の話題・税金とお金が暗示されているのです。

 

22節に、回し者たちの「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という巧みな罠の言葉があります。

 

彼らは、「神から賜ったイスラエルの土地は聖なる土地であり、その土地で得た収穫や収益は聖なるものであり、神様にのみ献げるべきものなので、たとえ収益の一部であっても、異教のローマ皇帝に納めることは非常に耐え難い侮辱であると考えるが、あなたは皇帝に税金を納めることは律法に適っていると思うか」と尋ねるのです。

 

これは、「皇帝に税金を納めることは、神の御心に適っていることか」という意味であり、神に選ばれた民、ユダヤ人が本当になすべきことなのかとイエス様に問うているのです。

 

回し者たちをイエスのもとへ送った祭司長たちの考えは、もしイエスが皇帝に税金を納めるべきと答えれば、ユダヤ人たち、特に民衆たちの信頼をイエスは失うことになり、もし税金を納めることを禁じるようなことを言えばローマに訴えて処罰して貰えるというもので、どちらに転んでも祭司長たちの思う壺だと思っていたことでしょう。

 

しかし、彼らのたくらみをイエス様は見抜いたと23節にあります。そして、続く24節と25節で、イエス様は回し者たちと次のような言葉を交わします。「『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」と言われます。

 

イエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われて、神様と皇帝を完全に分離しています。これは政教分離の原則、根拠となる言葉です。

 

イエス様の言葉は、ローマに支配され、隷属となっていた状態、それが不本意であっても、ローマの支配下にあるのだから、税を収めるという責任を果たしなさいということです。

 

ローマ帝国への責任を果たすことは期間が限定された小さなことです。しかし、神様への責任を果たすことは神様との関係性の中で永遠に続くことで、大いなる恵みへの応答です。責任というよりも、大きな喜びです。

 

小さな責任に目くじらを立てて地上での短い人生を送るか、神様からいただいている大きな恵みに感謝して誠実に生き、永遠の命に生かされる人生を送るか、どちらが良いでしょうか。どちらが、神様の御心、わたしたちに対する神様の願いでしょうかと問われているようです。

 

さて、「神のものは神に返しなさい」という言葉に注目しましょう。わたしたちは、神様の愛と憐れみの中、たくさんのものを神様から頂いて生かされています。命、体、時間、健康、お金、才能・能力、神様から頂いていないものはありません。これらはわたしたちに与えられたものですが、もともとは神様のものです。それらを「神様にお返ししなさい」というのは、自分のためだけに生きるのではなく、神様のために、主の栄光のために生きなさいということではないでしょうか。

 

税金を納めることが国民の国への責任であるとしたら、神様の愛の中で生かされているわたしたちの神様に対する責任は何になるでしょうか。そのようなことを常に考えながら、イエス様の言葉に耳を傾けながら、祈り求めながら、聖霊の励ましとお導きに委ねながら、神様に信頼しながら日々歩む中で、わたしたちが日々果たすべき責任が見えてくるのではないでしょうか。

 

わたしたちの地上に生かされている間の責任について考える時、わたしたちにはいつも意識していなければならないことがあると思います。それは、わたしたちは神様に造られた者であること、神様の愛に生かされている幸いな者であること、イエス様に罪赦され、救われ、神の子とされていること、永遠の命・祝福が約束されている幸いな者であるということです。

 

これらが救い主イエス・キリストにあって、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して生きること、生きたいと願い、求めることです。そこからどのように具体的に生きるべきか、わたしたちそれぞれの果たすべき責任を神様が見させてくださると信じます。

 

イエス様を陥れたいと願っていた祭司長、律法学者たち、その回し者たちは、「民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった」と26節にあります。

 

心に悪意を抱き・救い主を陥れようとする人々は、神様とイエス様の真実さの前に無力で、ただ主の言葉の前に驚き畏れ、言葉を失うだけです。神様の愛とその真実さに勝つものはこの世に存在しないからです。