ルカ(105) 人々の復活について語るイエス

ルカによる福音書20章27〜40節

今回の学びのテーマは、「復活」ですが、内容はイエス・キリストの復活ではなく、わたしたち人間の「復活」についてであり、「人の復活はあるか、ないか」というものです。

仏教では、「輪廻転生」という、車輪がぐるぐる回転し続ける(輪廻)ように、生と死を何度も繰り返す(転生)という考えがあり、人が死ねば身体は消えて無くなりますが、その人の「念・思い」は様々なものに移って生き続けるというように信じられています。

しかし、聖書(キリスト教)には、人の命(人生)は一度きりの命で、この地上での生を終えて死んだなら、「復活して神の国に招き入れられ、そこで永遠の命に生かされる」か、「陰府で永遠に苦しむか」の二つしかありません。「陰府(ハデス・ギリシャ語)」とは、すべての死者が集められる所、地の深い所など、その場所を表現する言葉は色々ありますが、もっと端的に表現すると、神の国(天国・御国)は「神のおられる所(神の臨在される所)」であり、陰府は「神のおられない・神が不在の所」と言えると思います。

参考までにお伝えしますが、旧約聖書では「陰府(シェオール)」という言葉は65回出てきますが、新約聖書には10回出てきます。ヨハネの黙示録(1:18,6:8,20:13,14)が最も多く出てきますが、他には使徒言行録(2:27,31)、マタイによる福音書(11:23,16:18)で、わたしたちが学んでいるルカによる福音書は10章15節と16章23節に出てきます。今回の箇所には「陰府」という言葉は出てきませんが、自分の心の頑なさを悔い改めて主に立ち返らなければ、神様の憐れみを受けて、神の国へは招かれないということが記されています。

さて、今回の27節に、「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が(イエス様のもとへ)何人か近寄って来た」とあります。ルカ福音書で初めて「サドカイ派の人々」が登場しますが、彼らの登場はここが最初で最後です。もちろん、その場には祭司長たちもいたことでしょう。39節から律法学者がいたことははっきりしています。

ユダヤ社会には、貴族階級に属するサドカイ派、庶民派のファリサイ派、それら主流派から距離を置くエッセネ派(修道的教派)などがありますが、サドカイ派は少数派ではありますが、祭司長を何人も輩出するような力のあるグループです。彼らの特徴は、「モーセ五書」と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを神の言葉と認め、この五書に記されている律法のみを守る人々です。このモーセ五書には死人の復活という記事はありませんので、彼らは死人が復活するということは認めませんでした。

しかし、福音書に最も多く登場するファリサイ派は、「義人の復活」を認めますし、モーセ五書以外の預言書や詩編や箴言などと言った知恵の書も神の言葉として認めていました。ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、それぞれ違いがありますが、彼らは「イエスはわれわれユダヤ教・ユダヤ社会を根底から破壊する危険人物」という認識とイエスを抹殺するということにおいては、恐ろしいほどまでに完全に一致していました。

そのサドカイ派の人々がイエス様のところへ来て、次のように質問します。27節の後半から33節です。「イエスに尋ねた。28『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 とあります。

サドカイ派の人々の質問は、申命記25章5節から10節に記されている死んだ兄の妻と弟が結婚して兄の世継ぎをもうけなければならないという律法に基づいています。彼らは、祭司長、律法学者たち、ファリサイ派たちと結託して、イエス様を試みて、その答えようによっては、律法違反を指摘し、イエス様を捕える証拠にしようと目論んでいたのです。

そのような魂胆をイエス様はすべて把握していたことでしょう。次のように返答します。34節から38節です。「34イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」とあります。

ここには注目すべきことが多数記されています。まず、「この世」と「次の世」についてです。「この世」とは、わたしたちがいま生きている世界です。「次の世」とは、わたしたちの死後の世界です。35節に「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は」とあります。「ふさわしいとされる」ということはそれを判断する存在が確かにいるということです。それは天地万物を創造され、わたしたちを造られた神です。

これまでのルカ福音書の学びでも聴いてきましたように、誰が神の国に招かれるのか、招かれないのかという問題以前に、創造主なる神が誰を神の国に招き、招かないかを判断されるのであって、神に背を向けて歩んで生きてきた者がこの期に及んでどんなにあがこうが、どうすることもできないのです。わたしたちにできることが一つありますが、それにはいくつかのステップを踏む必要があります。

それはまず1)神様の愛と憐れみを信じて、受け取ることから始まります。つまり、神の愛の表れである神の子イエス様を信じることです。そのために2)今までの神様抜きに歩んできた生き方を改めること(悔い改め・180度の方向転換)が必要です。そして3)イエス様の言葉に従順に聞き従って日々を重ねて生きるのです。そのように御言葉を中心とした生き方が神様の御心のままに生きるという人間の本来の歩み方だと聖書は教えます。

神様に背を向けて歩んできたわたしたちは、自分の本能に従うことは知っていても、神に従う従順さという性質を持っていませんから、神様が救い主として「この世」に派遣してくださったイエス・キリストを信じ、この方の言葉を神の言葉として聞き従ってゆく中で、聖霊に助けられ、新しく造り変えられてゆく中で、徐々に従順さが身に付いてゆき、神の国に「招かれるにふさわしい者」とされてゆき、神様の最終的な判断があるのです。

さて、次に注目すべて点は、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に招かれる人々は、めとることも嫁ぐこともない」ということ、つまり神の国では結婚はないということです。「結婚」というのは、この世・この地上の制度ですが、神の国の制度ではありません。

ユダヤ教では、人(男と女)が「この世」で結婚するのは、人類が死滅しないように子孫をもうけるためという基本的な考えをしっかり持っています。同じような考えは、他の民族にもあるでしょう。結婚は、男女の一時的な感情の昂ぶりから生じるものではなく、神の愛から始まっていることであり、決して遊びではないのです。

結婚は、神様が男と女を創造され、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されたこと(創世記1章27節28節)が起源となります。だからと言って、すべての男女が結婚しなければならないと神様は決して言っていないことをしっかり覚えておきたいと思います。それぞれの人生には、人の思いを遥かに超えた神様の配慮とご計画があるからです。

結婚は、「この世」の制度、この地上に生きる期間限定の制度です。結婚で幸いを感じる人もいれば、苦しみを負う人もおられます。幸いを感じる人は、神様にもっと感謝すべきでしょう。苦しみに感じる人は、神様にその苦しみをもっと委ねるべきでしょう。大切なのは、すべての人は神様の御手の中に生かされていることをいつも覚えて生きることです。命を与えてくださって生かしてくださっている神様を畏れて日々聞き従うことです。

では、なぜ「次の世」では結婚という制度はないのかということです。何故でしょう。「結婚は人類が死滅しないため」と先ほど言いましたが、「神様によって死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、もはや死ぬことがない」と36節でイエス様がはっきり宣言されています。神の国で神様の御許に招かれた人々には永遠の命が神様自らから与えられ、「神の子」として永遠に生きる存在となりますから、子孫をもうける必要がなくなるからです。これが「この世」と「次の世」の決定的な違いです。

ですから、神様によって神の国へ招かれた人々は、たとえ地上で親子関係、夫婦関係などの上下関係があったとしても、御国ではみんなが神の子とされる、関係性に平等があるのです。ですから、永遠の中には、人種とか、民族性とか、国籍とか、男女とか、年齢とか、人生の長短とか、貧富の差とか、人間界の制度などは神の国では存在しないのです。神の国で、神の子とされる者たちは、神様の愛の中で生き続ける存在になるのです。

37節に、「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」という少々分かりにくいイエス様の言葉がありますが、これは旧約聖書・出エジプト記3章で、モーセが神様から召命を受ける場面です。サドカイ派の人々だけでなく、ユダヤ全体に対して、ユダヤ人の祖先であるアブラハム、その子イサク、その子ヤコブは、この世・地上に生かされている間、神様との契約を忠実に守って生きたので神の子とされ、神の恵みのうちに復活し、霊の命に生きている者であるということで、モーセ五書にも記されているとイエス様はおっしゃっていて、ユダヤ人にも、わたしたち異邦人にも大切なのは、救い主イエス様を信じることなのです。

38節に、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」というイエス様の言葉があります。永遠の神は、永遠に生きる者たちの神なのです。死んでしまった人たちの神ではありません。

わたしたちに重要なのは、「わたしはあなたと共にいる」と約束してくださる神様と、神様からこの世に遣わされたインマヌエル、「神我々と共におられる」というイエス様を救い主と信じ、「共にいる場所」の望みつつ、その約束に信頼して歩み続けることです。

「すべての人は、神によって生きているから」という言葉の解釈は神学者たちの中で分かれます。「すべての人は、神のもとで生きている」とも受け取れますし、「すべての人は神に向かって生きている」とも取れます。口語訳聖書では、「人はみな神に生きるものだからである」とあり、新改訳聖書2017では「神にとって、すべての者が生きているのです」と訳されています。

「すべての人」とは、誰を指しているのでしょうか。それは地上に生きているすべての人と理解することでしょう。しかし、すべての人が聖書の神を信じている訳ではありません。神様を否定する人もいれば、偶像を信じている人もいる訳です。

しかし、聖書を通して、イエス・キリストを通して、すべての人は神によって造られ、生かされている存在であると宣言されています。わたしたちは、人間のエゴ、人間の性欲、誰かの都合で生まれて来た存在ではなく、神様に愛されている存在であるということをイエス様は語ります。

すべての人には自分らしく生きる神様のご計画と配慮があることを覚える、それを感謝する、それがわたしたち一人一人の人生がさらに豊かにされ、実り豊かになり、喜びと平安と希望の中に生かされていくことではないかと、今日のイエス様の言葉から感じます。

「そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた」と39節にあります。わたしたちはイエス様の言葉を今日、どのように受け止めるべきでしょうか。