神の望みとわたしの望み

「神の望みとわたしの望み」 九月第三主日礼拝 宣教 2024年9月15日

 詩編 40編9〜12節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も主の恵みに与り、皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできます幸いを主に感謝いたします。暑い日が毎日続きますが、いかがお過ごしでしょうか。昨日耳にしました予報によりますと、10月までこの暑さは続くとのことです。くれぐれもお大事にお過ごしください。皆さんも、外出する時は、いつも日傘をさしたり、建物の影や木陰を探しながら歩くようにしておられるかと思いますが、水分補給も忘れずにお願いします。わたしは、この夏、水や甘くない紅茶を冷やしてたくさん飲んでいるのですが、水分補給をし過ぎて、お腹がかなり出てきましたので、気をつけたいと思います。

 

さて、子どもメッセージの中で子どもたちにもお話ししましたように、明日は敬老の日であり、人生の先輩方に敬意と感謝を表す日であります。「わたしはまだ若い」とおっしゃって励ましてくださる方々もおられますし、実際にお若くいらっしゃいます。一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。特に1970年代から半世紀にわたって忠実にこの教会に仕えてくださり、教会の礎を築いて来てくださった先輩方に心から敬意を抱きます。教会は59年目の歩みを続けていますが、この教会で神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うこと、つまり礼拝と伝道と交わり、お互いを支え合って歩んでいきたいと願います。

 

私ごとで申し訳ないのですが、わたしの父は、53歳の若さで天に召されましたので、もし今も健在であれば今年の11月で90歳になるはずです。どのようなおじいちゃんになっているか、非常に興味がありますが、わたしよりも成人した娘たちや息子の方が実際に会えなかったおじいちゃんに興味があると言います。歳を重ねた父が目の前にいたら、どのような言葉をかけるだろうかと時折考えるわけですが、感謝の言葉しかないと思います。同じように、教会の信仰の諸先輩方にも感謝の気持ちしか持ち得ません。心からありがとうございます。日々主に守られ、主の恵みのうちに歩まれますように、心を尽くしてお祈りしております。

 

さて、突拍子もないことをお尋ねしますが、皆さんは記憶力が良いほうでしょうか。わたしが3ヶ月前にメッセージした内容、覚えておられるでしょうか。決して責めているわけではありません。ただ、お聞きしているだけです。誤解のないように。もしかしたら、「『神様の御心を求めて生きる』というテーマのシリーズが始まった頃かな?」とおぼろげに覚えておられるかもしれません。しかし、それだけ覚えておいてくださればもう十分です。

 

それでは半年前のメッセージ、1年前のメッセージを覚えておられる方はいらっしゃるでしょうか。多くの方々はたぶん覚えておられないと思います。もしそうであれば、安心いたします。何故かと申しますと、わたしも1年前とか、1年半前に、聖書のどの箇所からメッセージしたかまったく覚えていなかったので、今日の聖書箇所である詩編40編を昨年の5月にメッセージしたことを完全に忘れていて、今朝の礼拝のためのパワーポイントの準備をしていた数日前にそのことが判明して動揺してしまいました。わたしも来月で58歳、記憶力がだいぶ衰えて来ましたのでお祈りください。

 

さて、冗談めいたことはそれぐらいにして、ご一緒に神様からの語りかけに耳を傾けてまいりたいと思います。その理由は、神様の言葉を聞くために、神様はわたしたちの耳を開いてくださったと詩編40編7節に記されているからです。神様は、何故わたしたちの耳を開いてくださるのでしょうか。答えは簡単です。わたしたちが神様の言葉を常に聴いて、その言葉に従う従順さ、信仰の素直さを求めておられるからです。素直さが大切なのです。神様の御心は、わたしたちが神様の御言葉に聞き従い、神様の御旨を行って生きることなのです。

 

しかし、わたしたちは自分の心の中に自分の言葉ありますし、わたしたちの日常生活もたくさんの言葉、人々の言葉で満ちていて、わたしたちの多くは、非常に高い確率で、自分の内にある言葉・思いを優先させてしまったり、周りの声・言葉に影響され過ぎたり、振り回されたりして、混乱してしまい、簡単なことでも判断ミスをしたり、その結果として自分の望まない方向へ進んでしまって苦しみ悩むことがあります。皆さんはいかがでしょうか。

 

神様に創造された初めの人、アダムとエバは、神様の言葉に聞き従わなかったため、罪を犯し、神様から離れて生きてゆかなければならなくなり、たくさんの苦労をしなければなりませんでした。人は闇の中でもがき苦しむことになりました。しかし、それは神様がわたしたちを造り、素晴らしい命を与えてくださって生かしてくださる御心、計画、目的ではありませんでした。ですから、わたしたちを罪という闇の中から救い出すために、神様は世の光、救い主、常に聞き従うべき神の言葉としてイエス様をこの世へお遣わしくださいました。それは御子イエス様を救い主と信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。

 

ローマの信徒への手紙の10章17節で、使徒パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉に聞くことによって始まるのです。」と言っていますように、わたしたちのこの耳が、信仰の耳が開かれないと、わたしたちは神様の御心を聴くことができないのです。つまり、神様の御心を切に求めても、聴こえなければ、御心を行うことはできないのです。この耳を、わたしたちの耳を開いてくださるのが、主イエス・キリストなのです。

 

マルコによる福音書7章31節から37節(p75)に耳が聞こえず、言葉もうまく話せない人がイエス様によって癒やされる箇所があります。イエス様がその人の両耳にイエス様の指を差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられ、そして天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ(開け)」と言われると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解かれ、はっきりと、そして自由に話すことができるようになったと記されています。面白いことに、この癒やされた人だけでなく、その癒やされた救いの御業を見た人々は、イエス様から「誰にもこのことを話してはいけない」と口止めされたのに、イエス様に口止めされればされるほど、人々はその救いの御業を言い広めるのです。どうしてでしょうか。驚くべき救いの業、神様の愛と憐れみを目の当たりにして感動したからです。

 

わたしたちの信仰のチャレンジというのは、その救われた感動をいつもリフレッシュしながら持ち続けるということです。神様の愛に留まるということです。神様の愛、この感動が時間の流れの中で薄れていきますとイエス様から徐々に離れてゆくことになります。イエス様から離れて生きることは、神様の御心ではありません。ですから、神様の恵みに感動し続け、喜びに満たされて日々歩むためには、わたしたちの目をイエス様に向け、イエス様の言葉に耳を傾け、イエス様を通して神様の御心を聴いて歩んでゆく必要があります。ですから、教会生活が重要となってくるのです。今朝のように、共に礼拝、祈り、主のために働くこと、イエス様を中心とした交わりが神様に愛されている感動を持続させる秘訣なのです。

 

日々の生活の中で、たいへん辛いことを経験して悩み苦しむことが多々あります。予期せぬことが突然起こって、我を失って混乱することもあります。人間関係のもつれやそこから生じる憎しみ合い、奪い合い、けなし合いなど、「滅びの穴や泥沼」に落ちて、もがき苦しむことがあります。この詩編40編の作者とされるダビデも真っ暗闇を経験しましたが、それでも神様に望みを置き、主に信頼し続けました。そのようなダビデの叫びを神様が聞いてくださり、「滅びの穴、泥沼」から引き上げ、彼の足を岩の上に立たせてくださいました。

 

神様がイエス様を通して与えてくださる信仰をわたしたちも受け取り、イエス様のみに望みを置き、イエス様の言葉に聞き従う時、わたしたちにも同じことが起こります。すなわち、大いなる憐れみ、救いが与えられ、その救いの喜びと感動の渦から新しい賛美がわたしたちの心に湧き上がり、主をほめたたえる中で、真の幸いを頂くことができます。ですから9節にありますように、まずわたしたちは「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望みます」と言って、神様の御旨を優先して生きて行くことを選び取ることが重要となります。ダビデは、9節の後半で、「神の教えを胸に刻み」なさいと言っています。これも重要です。

 

さて、神様の御心(望み)とわたしの心(望み)が合わさって一つとされて行く時、つまり神様のわたしたちへの願いとわたしたちの願いが一致すると、どのような化学反応が起こり、祝福が増し加えられるのでしょうか。ダビデの場合は、どうであったでしょうか。10節に「大いなる集会で正しく良い知らせ(福音)を伝え、決して唇を閉じません」と言っています。礼拝の中で主の愛を証しすることもそうですが、日々の生活の中でも絶えず神様に礼拝をおささげしているわけですから、わたしたちの生きる場所で神様の愛を分かち合うことが神様の御心であると信じます。

 

11節も内容的に同じです。「恵みの御業を心に秘めておくことなく、大いなる集会であなたの真実と救いを語り、慈しみとまことを隠さずに語りました」とあります。神様がイエス様を通してわたしをどのように取り扱ってこれまで導いて来てくださり、恵みを持って生かしてくださっているかを、神様のその真実さ、救いの確かさ、慈しみと真を何のためらいなく、臆することもなく、聖霊に導かれるままの自分の言葉で大胆に分かち合うことが神様の御心です。そのように生きることを選び取る中で、神様の祝福はわたしたちの上にさらに注がれると信じて感謝の祈りをおささげいたします。神様の望みとわたしの望み、そこに一致が与えられるように、主に信頼しつつ歩みながら、祈り求めながら歩んでまいりましょう。