御心に沿って謙遜に生きる

「御心に沿って謙遜に生きる」 九月第五主日礼拝 宣教 2024年9月29日

 ヤコブの手紙 4章13〜17節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も神様の憐れみとお招きにより、皆さんと共に礼拝をおささげする幸い、感謝です。まだ湿度の高い日もありますが、朝晩はだいぶ肌寒くなってきました。今日は半袖か、長袖かと判断に困る日もありますが、日々お大事にお過ごしください。

 

さて、今週から始まる10月は、第一から第三の主日礼拝はわたくしがメッセージをさせていただきますが、27日の朝の主日礼拝では、NS宣教師がメッセージをしてくださいます。わたしは、その日、川崎市にあるYキリスト教会の特別礼拝でメッセージの御用に当たりますので、二人の働きを覚えてお祈りください。さらに10月13日の夕礼拝は、沖縄のGWC牧師のGM先生が来てメッセージしてくださいます。賛美チームと証しチームが一緒に来られますので、盛りだくさんの素晴らしい礼拝になると主に期待しています。礼拝堂にいらしてご一緒に礼拝をおささげしたい気持ちは山々ですが、朝の礼拝の出席だけでも難しいと思います。オンラインでご出席ください。

 

さて、今日は、日本語教会と韓国語教会の合同礼拝が午後3時からこの礼拝堂でささげられます。新大久保駅近くにあるTGM教会の青年たちが大久保教会を訪れてくださり、共に賛美と礼拝をおささげします。昨日も、賛美チームが礼拝堂で3時間以上も練習されていましたが、TGM教会の青年たち、大久保教会の青年たちにとっても、初めての合同礼拝の機会が神様から与えられています。とても興奮しています。青年でなくても、どなたでも出席できますので、ぜひご出席ください。TGM教会の青年だけでも35人ほどが出席される予定です。この新しい出会いから、祝福の輪が広がり、連合内の多くの教会に祝福と喜びが波及することを願います。どうぞお祈りください。

 

さて、6月から「神の御心を探し求めて生きる」というテーマで、神様がわたしたち一人ひとりに求めておられる生き方について御言葉の分かち合いを4ヶ月間ずっとさせていただきましたが、今回がその最終回となります。短いアナウンスになりますが、来月10月は、神様から日々いただいている恵みをどのように用いることが神様の御心であるかについて、いわゆるスチュワードシップをテーマにメッセージさせていただく準備をしております。

 

さて、神様の御心を探し求めていく中で、今朝のメッセージの箇所として先週まで示されていたのは詩編143編10節でした。このようにあります。「御旨を行う術を教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地へ導いてください」という御言葉です。しかし、よく考えてみますと、これまでの4ヶ月の学びの中で、わたしたちは十分過ぎるほど、神様の御心を行う「術」を神様から教わったのではないかと思うのですが、皆さんの感触はいかがでしょうか。しかし、わたしたちは忘れやすいので、適宜リマインドされる必要があります。神様の御心を行う「術」は、たった一つしかありません。それは、神様がわたしたちのもとへ救い主として遣わしてくださった神の御子イエス・キリストに日々聞き従う、たったそれだけです。それに尽きるのです。

 

この世の中に蔓延する人間の欲望に満ちた声や身勝手な意見ではなく、只々、神様の愛であるイエス様の言葉と教えに従順に聞き従ってゆけば、わたしたちは神様の御心を理解することができ、その御心を行う知恵と力が与えられるのです。しかし、わたしたちの意思、信念、信仰は非常に弱いゆえに、神様の憐れみが絶えず必要です。そういう中で、わたしたちに絶対的に必要なのは、謙遜さです。神様に信頼し、日々主により頼んで生きるということ。どのようなことがあっても、時が良くても悪くても、イエス・キリストから目を離さず、イエス様の声に耳を傾け、その言葉・命令に従う従順さです。

 

「御心を探し求めて生きる」シリーズを締めくくる御言葉として示されたのは、ヤコブの手紙4章全体ですが、最後の13節から17節の部分を先ほど読ませていただきました。今朝は、1節から17節までの中で示される神様の御心に聴いて行きたいと願っています。先ほど、「時が良くても悪くても、イエス様から目を離さずに」と申しました。わたしたちの人生というのは、良い時もあれば、悪い時もあるわけです。もう充分に体験済みです。何もかもうまく行っている時は、もうルンルン気分です。不満な事はほぼない。すべてが自分の願い通り、計画通りという感じです。

 

しかし、人生とは山あり谷ありです。予期しない時に突然苦難が差し迫り、長いトンネルに入ったかのように、思い悩む日々、葛藤の日々を過ごすことがあるわけです。自分の心だけではありません。社会を見渡しても誹謗中傷ばかりです。世界を見渡しても紛争や戦争ばかりです。どうしてこんなにも悲惨なことが人間の手によって繰り返されるのかと思うようなことが日常茶飯事です。現代の情報網の中、昔に比べれば、耳に飛び込んでくる情報はいち早く、そして正確です。落とし穴があるとしたら、それは政府やマスメディアの情報隠しや情報操作だけです。連日報道されるのは、様々な形の競り合いの途中経過や結果だけです。

 

ヤコブは、1節で、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う『欲望』が、その原因ではありませんか」と言っています。続く2節で、「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」とわたしたちの罪深さを的確に指摘しています。

 

2節後半から3節には、「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と言っています。求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうという魂胆であるから、神様の御心を完全に無視した自分勝手な動機で求めているからですと言います。しかし、そもそも、願い求めている先が違うのです。わたしたちの多くは、この世の有限なものを資源として祝福を求めます。しかし、わたしたちが常に求めなければならない祝福の源は、無限の愛とご配慮、ご計画のある神様です。自分の楽しみを追い求めるのではなく、わたしたちの命の源である神様が喜ばれる生き方を、イエス様を通して常に求めることなのです。

 

4節後半の「世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」という警告をしっかり受け止めなければなりません。5節と6節、特に6節後半に重要なことが記されています。「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。』それで、こう書かれています。『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。』」とあります。神様は、謙遜な者に恵みを与えてくださいます。

 

ですから、続く7節と8節で次のように戒められています。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」と。10節の重要です。「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」とありますように、わたしたちに対する神様の願い、御心は、わたしたちが神様を畏れて、その御前で謙遜に生きることなのです。

 

神様の御心ではないことが11節にありますが、それは人の悪口を言ったり、浅はかな考えだけで人を裁いてしまうことです。12節には、主なる神様のみが、わたしたちを救うことも、滅ぼすこともお出来になられる唯一の神であるとはっきり記されています。わたしたちがいつも問わなければならないのは、「自分はいったい何者なのか」ということです。わたしたちは何者でしょうか。神様というわたしたちの創造主、愛の神を抜きにして、そしてイエス様の十字架の死と復活を抜きにして、わたしたちは自分を御心に適った者として、どのように感謝と喜びをもって、自分を正しく受け止めることができるでしょう。できないのです。

 

ですから、わたしたちはイエス様の言葉をよく聞く必要があります。14節です。神様とイエス様の愛なしに生きようとすれば、わたしたちは「わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」。ゆえに、わたしたちは、素直に、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきなのです。イエス様につながる中で、神様の御心にとどまり続ける必要があります。

 

イエス様を救い主と信じ、このイエス様につながる中で、神様につながることが主の憐れみの中で出来るようになり、愛の源である神様にとどまり続けることが出来るようになります。そしてその豊かな愛に生かされる中で、わたしたちは神様とイエス様を心と思いと力を尽くして愛することが初めてでき、自分を愛するように隣人を愛することが初めてでき、互いに愛し合う喜びを受けることが初めてできるようになります。

 

神様の愛のうちに生かされるか、それとも自己愛の中に生き続けるか。神様の願いは何でしょうか。神様の願いは、わたしたちが神様の御心に沿って謙遜に生きることです。しかし、実際はどうでしょうか。16節と17節に「ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」とあります。

 

もしわたしたちの心の中に誇り高ぶりがあるならば、今朝、この場所で、その誇り高ぶりを神様の御前で悔い改め、その傲慢な自分を神様に明け渡しましょう。そして、イエス様の言葉によって新しくされ、神様の愛に生きる者とされましょう。それが神様の御心です。