神の御心にそった献金の献げ方

「神の御心にそった献金の献げ方」 十月第三主日礼拝 宣教 2024年10月20日

 コリントの信徒への手紙二 8章1〜15節      牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝もご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを主なる神様に感謝いたします。先週から、わたしの大好きな金木犀の季節になりました。それなのに、昨日の関東地域は最も遅い真夏日になり、春先に購入した金木犀の木の小さな花々は、たくさん落ちてしまいました。教会の金木犀はまだまだ若木なので、甘い匂いもあまり強くないのですが、年々成長してゆく中で、教会に来られる方々を喜ばせる存在になると信じています。わたしたち大久保教会も、主の御言葉によって成長し、成熟してゆく中で、キリスト・イエスの香りを醸し出して、地域の方々に安らぎと喜び、そして希望を与えるような教会にされてゆきたいと願います。そのためには、礼拝と祈りと交わりがわたしたちに欠かせません。

 

さて、先週月曜日に散歩に出かけた際、行きつけの花屋さんで「クチナシの花」の若木が見切り価格の300円で売られていましたので購入しました。来年の6月には白い花がたくさん咲いて、金木犀とはまた違った甘い香りを楽しめるはずですが、甘い香りというのは危険だと言われるように、少し問題が生じてきます。それは、知らぬ間に蝶が木に卵を産み付け、幼虫がものすごい勢いで若葉を食べ尽くすので、細心の注意を払わねばなりません。蝶が悪いわけではありません。栄養価のある美味しい葉であることは蝶も分かっているのです。

 

ここで問題というのは、わたしたちが少しでも気を緩めると、サタンがすぐに近寄って来て、わたしたちを神様から引き離そうと罪を犯す卵をたくさん産み付けてゆくということです。そして、そのままそれを放置しておくと、わたしたちは神様の愛と恵みを忘れてしまい、自分勝手な生き方を思い出して、罪を犯し、霊的にボロボロになってしまうのです。ですから、お互いの事を気にかけ合って、祈り合って、教会が守られ、成長し、神様と人々から喜ばれる甘くて良い香りを醸し出せるように、共に愛し合って歩んでまいりましょう。

 

さて、先週の礼拝のメッセージでは、新約聖書のヤコブの手紙5章から、神様から授かり、委ねられている富・財産の間違った管理の仕方、取り扱い方を学び、そして旧約聖書の箴言から、富・財産の正しい管理の仕方と用い方を学びました。正しい用い方とは、神様の御心にそった使い方、御心に適った用い方という意味になります。もし先週のメッセージを聴き逃された方がおられれば、教会ホームページにありますので、どうぞお読みください。

 

今朝は、神様から与えられ、委ねられている富や財産の一部を神様にお返ししてゆく「献金」ということについて、第二コリント8章から聴いてゆきたいと願っています。皆さんの中には、「献金」という二文字を聞いて、「あ〜あ、今朝の礼拝に来なければ良かった」と後悔されている方もおられるかもしれませんし、「あ〜あ、キリスト教会も新興宗教の団体と同じように献金を強要するのか」と思われる方もおられるかもしれませんが、今朝は、真のキリスト教会の献金は、新興宗教団体が求める献金とはまったく違った次元の献げものであることを分かりやすくお話ししたいと思っています。

 

最初から横道に逸れますが、先月TJC教会で出会った青年とそのお母さんのことを分かち合いたいと思います。彼は「Y君」と言いますが、彼と出会ったその日、彼は名門の私立大学を卒業し、その卒業式後に青年のための礼拝に出席していました。彼のお母さんはクリスチャンで、韓国の方ですが、神様とイエス様の次に息子を愛し、貧しい中ですが、毎日懸命に働き、彼の将来の教育費を少しずつ貯金していました。ある時、この親子が通っていた教会が古くなった礼拝堂を新しく建築することになりました。お母さんは悩んだそうです。愛する息子のために、大学の学費としてコツコツと貯金してきたお金を神様のために献げるべきか、貯金したままにしておくべきか、と。彼女は神様に祈って、主に信頼して、ずっと貯蓄してきたものをすべて神様に献げたそうです。

 

その後、この親子はどうなったのか。彼女の息子さんは、中学から大学を卒業するまで、学費を一度も支払ったことがなかったそうです。彼が優秀であったことは言うまでもありませんが、東京で有名な名門私立大学でも4年間奨学金を受けて、一度も学費を払うことなく、首席で卒業されました。すごいと思いませんか。神様は真実なお方です。この真実なお方に信頼し、すべてを委ねてゆくと、神様は愛と真とをもって、わたしたちのすべての必要を満たしてくださいます。祝福してくださいます。わたしたちが神様を信頼するもっと前から、神様はわたしたちを愛し、その愛を与え続け、イエス・キリストを通して真実さを示してくださいました。わたしたちに必要なことは真実な神様にだけ信頼してゆくことなのです。

 

皆さんの中には、「そんな上手い事があるはずはない」と思われている方もおられるかもしれません。もしそう思われるならば、神様を試みてはいかがでしょうか。神様を一度だけでも信頼して、神様に真心から祈って、祈って、祈って、心から感謝を献金という形で献げ、すべて神様に献げてみてはどうでしょうか。収入の10%だけでも良いでしょう。それを1年間、神様に献げてみてはどうでしょうか。周りの人々があなたを祝福するのではありません。主なる神様があなたを祝福し、あなたの周りにいる人々を豊かに祝福されるのです。

 

今朝、月報が発行されました。出来るだけ丁寧に編集・発行している月報を毎月読んでくださっていると思いますが、そこに毎月の会計報告と献金報告が記載されています。今年度も半分が終わりましたが、年間予算の50%に満たない項目があります。それは感謝献金です。月約献金もギリギリです。しかし、すでに65%から80%越えしている項目も複数あります。わたしたちの神様への思い、祈りがアンバランスなのでしょうか。礼拝に出席していればそれだけで十分で、献金など献げなくても良いと考えの教会員もおられるかもしれませんが、主なる神様は献金の額ではなく、わたしたち礼拝者の心を常にご覧になられるのです。

 

ある方から「月約献金・什一献金はいくら献げたら良いのでしょうか」と質問されたことがあります。わたしはあまり触れたくないことなので、「ご自分で神様に祈って、神様から示されたものを収入の中から信仰をもってお献げください」といつも言うのですが、大久保教会の今年度の月約献金の年間予算は400万円です。一人が毎月1万円献げると年間12万円です。年間予算額400万円を12万円で割れば、自分のような教会員が何人必要か分かります。ちなみに、現在の教会員数は25名です。一人1万円だと、34名必要となる計算です。

 

献金は、神様への感謝の献げものです。献金は、1)教会の働きを支えます。2)神様に信頼していることを表します。3)生活の中に余白を作り、神様がわたしの必要を満たしてくださることを体験させます。4)神様がすべての祝福の源であることを気付かせます。5)この地に御国を建設するために用いられます。6)わたしの働きと献げものが永遠の命のために意義・重要性があることを示します。7)お金が御言葉という種に変換され、人々の心に蒔かれます。8)わたしの貪欲さと自尊心を打ち砕きます。9)わたしの人生において神が第一であることをすべての人に証しします。献金は、わたしたちの気前の良さ、信仰深さを周囲の人々に示す行為ではなく、月報の献金項目のすべてに自分の名前が記されていることに優越感に抱くためのものでもありません。献金は、神様への服従を表すものです。

 

今朝は、コリントの信徒へ第二の手紙の8章から神様から語りかけ・御心を聴いてまいりますが、この箇所の背景を手短にお話ししますと、地域の飢饉の煽りを受けて困窮していたエルサレム教会の兄弟姉妹を支援するために緊急な献金を使徒パウロが呼びかけたのですが、マケドニア地方の諸教会が神様への献金として、信仰をもって、率先して献金を献げたことをコリントにある諸教会に知らせて、信仰のチャレンジを与える箇所になっています。

 

1節から5節に、「1兄弟姉妹たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。2彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。3わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、4聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。5また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」とあります。

 

献金とは、なんでしょうか。なんのためのものでしょうか。献金とは、5節にあるように、1)神様を第一とし、御心にそって自分を神様に献げることです。前後しますが、3節にあるように、献金とは、2)自ら進んでするもので、誰かから強要されるものではありません。また、2節にあるように、献金とは、3)惜しまずに献げるものです。少し飛びますが、8節では、献金とは、4)神様に対するわたしたちの愛が純粋であるかを表すバロメーターです。また少し飛びますが、12節にあるように、5)持たないものではなく、持っているものに応じて心から献げるということです。最後に13節にあるように、献金は、6)富む人と富まない人とのバランスが保たれ、共に主に仕える力として用いられるものです。14節に、「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」とあります。

 

使徒パウロは、7節で、わたしたちに対して、「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と信仰のチャレンジを与えます。このチャレンジを受け、このチャレンジに勝利を与える方法は、イエス様だけを見つめることです。このイエス様を通して神様から真と恵みを受けていることを喜び、感謝することが大切です。

 

わたしたちが神様から受けている恵みとは何でしょうか。それは9節に記されています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」とあります。わたしたちが献金を献げるのは、神の御子イエス・キリストが、わたしのような者を救うために、その命を十字架の上で神様に献げられ、わたしたちにその命を与えてくださり、神の子としてくださっているからです。永遠の命の約束を与えてくださっているからです。この上ない最上級の愛、恵みです。この恵みに応えて生きる者とされてゆきましょう。