「わたしたちの立ち返りを待つ神」 十一月第一主日礼拝 宣教 2024年11月3日
イザヤ書 5章1〜6節 牧師 河野信一郎
おはようございます。11月に入り、2024年も残すところ2ヶ月です。秋も日々深まる中、今朝も皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。先週27日の主日礼拝では、NS宣教師が力強くメッセージをしてくださり、子どもメッセージも、MS宣教師がしてくださり、わたしは安心してYキリスト教会の秋の特別礼拝で神様の愛を分かち合うことができました。皆さんのお祈りと派遣に感謝いたします。
さて、先週の礼拝でも予告がなされましたが、今朝から12月15日までの間、「わたしたちを待つ神」というテーマで6回にわたるシリーズを始めます。わたしたちは、アドベントの期間を、イエス・キリストという神様からのプレゼント、救い主の誕生を待つ時と捉えてしまっています。それはそれで間違いではありませんが、すでにイエス様は2000年前にベツレヘムという町で誕生され、その生き様を通して神様の愛をわたしたちに示し、救いを宣言してくださり、神様が待っておられる御国への道をはっきりと示してくださいました。
この礼拝の後に主の晩餐式が執り行われますが、イエス様はわたしたちを罪から解放し、不安と死の恐れから救うために十字架で贖いの死を遂げてくださいました。そのイエス様を父なる神様が愛の御力をもって甦らせ、救いの完成を成し遂げてくださいました。イエス様と出会っていない方々は、イエス様との出逢いを積極的に待つべきです。イエス様を通して救いが与えられるからです。しかし、イエス・キリストとすでに出逢い、イエス様を救い主と信じ、主と告白して従うわたしたちがこのアドベントの間に待つべきことは、主イエス様の再臨です。イエス様が再びこの地上に来られることは2000年前にイエス様によってすでに約束されている疑いようのない真実であり、神様は救いの約束は果たされるのです。
しかし、なぜ2000年前の約束からイエス様の再臨が、今もなお実現していないのでしょうか。それは、神様の側に明確な理由があるからです。その理由とは、神様がわたしたちの事を待っておられるという一言に尽きると思います。それでは、神様はわたしたちに何を期待され、愛と忍耐をもって待っておられるのでしょうか。それを知るために、6回のメッセージを準備しました。わたしたちの信仰生活において重要なテーマであると思います。
アドベントの期間は、クリスマスプレゼントを必死に準備する時ではなく、神様がわたしたちに期待し、神様の望まれる実を結ぶことをひたすら待っておられることを覚える時です。神様がわたしたちに何を望まれ、何を期待されているのかということがはっきり分かったら、わたしたちは本来なすべき心の準備を本格的に始めて、神様の御心に沿った生き方、実を結ぶことができると主イエス様と聖霊に期待しています。礼拝に毎週出席できない方は、教会ホームページから原稿をお読みいただきたいと願っています。
さて、今朝は旧約聖書のイザヤ書5章の最初の部分から、神様はわたしたちが自分の間違いに気付き、悔い改めて神様のもとへ立ち返ることを期待し、忍耐して待っておられるということをご一緒に聴いてゆきたいと願っています。それが今朝のメッセージのテーマです。
まず1節と2節を読んでみましょう。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。 わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」とあります。
「わたしは歌おう」と言って、ぶどう畑の愛の歌を歌っているのは、預言者イザヤです。イザヤが言う「わたしの愛する者」とは、神様のことです。神様は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っています。この「ぶどう畑」とは、イスラエルのことです。神様は、このぶどう畑のために、その土地をよく耕し、根が大地に張り巡らされるようになるために、その妨げになる石をすべて取り除き、ぶどうの苗木を植えられます。「良いぶどう」とありますので、甘くて美味しい実を結ぶぶどうの苗木がたくさん植えられたのだと想像します。
そして大きな収穫を見越して、期待して、その畑の真ん中に見張りの塔も立て、美味しいぶどうが貪欲なものたちに盗まれないように十分な警戒体制も置かれ、美味しいぶどうがたわわに結んだ際には、ぶどう酒を作ろうと酒ぶねも掘られました。もうすべて準備万端です。神様はイスラエルが良いぶどうを実らせることを期待して、その時を待ちました。
皆さんは、今年、美味しいぶどうを楽しまれたでしょうか。我が家は、この秋も、美味しいぶどうを送っていただき、家族みんなで楽しみました。巨峰やシャインマスカットなど、本当に美味しかったです。ぶどう園の方々が丹精込めて育ててくれたものをわたしたちはいただいて、食べるのです。ぶどうを愛する農家の方々は、美味しくないぶどうを出荷するでしょうか。そんなことをしたら、お客さんの期待を裏切りことになり、お客さんは離れ、翌年からぶどうを購入しなくなります。ぶどうの作り手は、自信のあるものだけを出荷します。
しかし、イスラエルの場合はどうでしょうか。実ったのはすべて酸っぱいぶどうでした。何ひとつ、甘い実を結ぶ木がなかったのです。実をそのまま口に頬張ってその甘さを楽しめない。干してレーズンにしてケーキやクッキーも作ることができない。実を潰してジュースにして飲んだり、それを発酵させ、寝かせてワインにして飲むこともできないほど酸っぱいぶどうです。岩波訳聖書では、「腐った葡萄」と訳されています。腐ったものは、捨てて肥料にするしかありません。愛情を込めて育てたのですから、そんな悲しいことはありません。
さて、3節から主語がイザヤから神様に変わります。3節と4節を読みます。「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」と神様の嘆きが記されています。これまで愛情をいっぱい注いで世話をし、丹精込めて育ててきたのです。美味しい実を結んで楽しませてくれることを心から楽しみにしておられたと思います。しかし、結果は、すぐに口から吐き出してしまうほど酸っぱいぶどうの実をイスラエルは結んだのです。愛情をいっぱい注いだ分、失望も大きかったのではないでしょうか。
その失望感をわたしたちならどのように解決するでしょうか。5節と6節に何とあるでしょうか。「さあ、お前たちに告げよう、わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。 雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」とあります。
5節の「囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる」と言う部分は理解できます。わたしは短気ですから、怒りに変わり、ぶどうの木をすべて切り倒して焼き払ってしまうかもしれません。しかし、神様は一味も、二味も違います。「枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう」とあります。神様は、ぶどう畑を、イスラエルを荒れるままにして置かれるのです。
しかし、なぜ神様はそのままにして置かれるのでしょうか。なぜ神様の期待を裏切る者たち、裏切り続ける者たち、イスラエル、そしてわたしたちの多くを放任・放置したままにされておかれるのでしょうか。それは、わたしたちが、イスラエルが、神様の愛から離れて罪の中に留まり続ける者たちが自分の間違い、罪に気付き、悔い改めて神様のもとへ立ち返ることを神様が愛と忍耐をもって待っておられるからです。そのようにわたしたちが神様の愛に気付き、神様に立ち返ることを神様が期待され、待ち続けておられるからです。
しかし、悲しいかな、ほとんどの人々はその愛と期待に気付かないまま歩み続け、罪の中で苦しみ続けることになります。罪の中で、闇の中で何とかそこから這い出ようと試みますが、うまく行かずに苦しみ続け、悶え続け、神様から見捨てられたと思い込み、いっそう神様から離れてゆきます。しかし、そのような行動は神様がわたしたちに願っておられるものではありません。神様の御心は、わたしたちを裁くことではありません。わたしたちが自分の弱さ、間違いに気付き、その間違いを正せない自分の無力さを実感する中で神様に叫んで、救いを求めることです。「お父さん、ごめんなさい。わたしを救ってください」と神様の愛にすがることです。
先日、とあるドラマを見ました。「ミッシング」という韓国ドラマなのですが、その中で、愛する娘を誘拐され、15年以上も娘を探し続けるお父さんが苦しみの中で、暗闇に向かってこう言うのです。「なぁ、ヒョンジや、お父さんに会いたくないのか。お父さんはお前に会いたいよ。会いたくて、会いたくて仕方がないよ!」と叫び、咽ぶのです。恥ずかしながら、わたしの涙腺は崩壊しました。わたしは、神様に愛されていることを強く感じました。
神様は、わたしたちを造り、愛情を注ぎ、恵みを与えてくださいます。与え続けてくださいます。わたしたちが神様を無視して自分の好きなように生きていて、結ぶ実は神様にとってはすべて酸っぱいぶどうであっても、わたしたちをそのままにして置かれます。何故か。それはわたしたちが神様の愛に気付き、神様に立ち返って神様の愛の中で生き、作り変えられて神様の喜ばれる実をたくさん結んで生きることです。その実とは、神様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合って、その中で主の平和をこの地上に作ることです。その方法を教えてくださるのがイエス・キリストであり、イエス様の言葉であり、イエス様はその生き様を通してその方法を教えてくださるのです。イエス様を信じて従えば、わたしたちは酸っぱいぶどうを結ぶ枝から、甘いぶどうを結ぶ枝に変えられます。イエス様は、わたしに繋がりなさいといつも招いてくださっています。
わたしたちは、いつも自分のことばかりに忙しくしていないでしょうか。自分や家族の幸せのためだけに、神様からいただいているものすべてを費やして生きていないでしょうか。それが神様の御心から大きく離れていることに、わたしたちはいつ気付くのでしょうか。今日ではないでしょうか。神様のぶどう畑がこれ以上踏み荒らされても良いのでしょうか。そんなことはありません。わたしたちに必要なのは、悔い改めて、神様に立ち返り、良い実を結ぶこと、それ以外にはありません。それを神様はひたすら忍耐して、愛をもって待っておられるのです。そのことを心に留めて、今日から始まる新しい週を主と共に歩みましょう。