ルカ(115) ペトロの離反を予告するイエス

ルカによる福音書22章31~34節

十字架の死を目前に、イエス様が切に願っていた弟子たちとの過越の食事・最後の晩餐も佳境に入って来ました。イエス様がこの食事会を企画された理由は、弟子たちがてんでばらばらであったからであり、実施された目的は、1)弟子たちの間に互いに仕え合う一致を与えること、そして2)イエス様と弟子たちとの間に新しい契約を交わすことでした。

しかし、自分たちの中にイエス様を裏切る者がいるとイエス様から聞くや否や、弟子たちの間に犯人探しの議論が始まり、挙げ句の果てには、弟子の中で最も偉いのは誰か、すなわち、イエス様の一番弟子は誰かという議論を勃発させる始末です。弟子たちの中で本当に偉い者は、人から仕えられる者ではなく、人々に心から仕える者であるとイエス様は、教えられ、弟子たちも主イエス様のように生きること、すなわち、心から神様と人を愛して仕える者となることが神の御心であるとイエス様は教えられました。

この最後の晩餐の中で、ユダの裏切りが予告され、今回の31節から34節では、シモン・ペトロがイエス様を知らないと3度言うことが予告されます。「不祥事」と言っても決して過言でない弟子たちの行動に共通するのは、「サタン」の存在と関与です。

今回、「この二人の弟子たち」の不祥事という言い方をあえて避けたのは、このような裏切りは、12人の弟子たちのうち、誰にでも起こしえる不祥事であると考えられますので、そのような表現の仕方をしました。このような考えを持つ根拠は、31節でイエス様が「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と言われた言葉が記録されているからです。イエス様は「シモン、シモン」と言ってシモンに話しかけておられるのに、「サタンが『あなたがたを』、小麦のようにふるいにかける」と言われます。「あなたがた」とは、弟子たち全員のことです。イエス様は、シモン・ペトロを代表とする弟子たち全員に対して警告をしているのです。

さて、ここまででいくつかの疑問が浮上してきます。一つは、サタンがシモンをふるいにかける願いを神様はなぜ聞き入れられたのかという疑問です。もう一つは、「ふるいにかける」とは実際にどのようなことであるのかという疑問です。しかしその二つの疑問に入る前に、サタンという存在についてお話ししなければならないと思います。

聖書に記されている「サタン」という存在は、わたしたちを神様から引き離すことを自分の存在理由、唯一の喜びとしています。もっと端的に言いますと、神様を信じ、イエス様を救い主と信じる者たちを甘い言葉で惑わし、時には激しく試み、神様とイエス様から引き離そうとする存在です。サタンは、神を信じない者たちに関心がありません。何故ならば、信じない者たちはすでに神から距離をおく者たちで、何もしないでそのまま放っておいても、いずれ滅んでゆく存在であることをサタンは知っているからです。

しかし、イエス・キリストを通して神様から信仰が与えられている者たちには、罪の贖いがあり、悔い改めとイエス様を救い主と信じる信仰告白とバプテスマによって救いが与えられ、神の国に招かれ、永遠の命を得る約束があり、神の子として永遠に滅びない存在とされていますので、そのような者たちを神様から引き離すために、様々な巧妙な手口で信仰者の信仰を試みたり、誘惑したり、攻撃するのです。

次に、神様はなぜシモンをふるいにかけることをサタンに許可されたのかという疑問です。理由は、いくつか考えられます。まず、1)シモンを筆頭に、弟子たちが傲慢であったということ。2)信仰は、神様から与えられる賜物であるのに、自分の努力や行いで得たかのような錯覚を弟子たちがしていて、その間違いを指摘するためであった。3)弟子たちの信仰が本物か偽物かを見分けるためであった。4)今後どのようなことがあってもイエス様から離れないように、訓練させ、成長させ、強くするためであった、などです。

神様は、イエス・キリストの福音、神様の愛を伝えるための器・働き人たちを訓練したり、重要なことを教えて整えるために、役割の一端をサタンに任せるという荒手を使うことがあります。しかし、サタンが試みる時も、誘惑するような時も、神様はいつも信仰者たちと共にいてくださるのです。今回、サタンに許可したのは、ユダとシモンの近くにイエス様がおられたからです。わたしたちを様々な試みや試練から守れるのは、イエス様しかおられません。イエス様に助けを求めることが心と身体が守れる唯一の手段なのです。

さて、もう一つの問い、「ふるいにかける」とは、実際にどのようなことであるのかをお話しします。先ほど、サタンは信仰者を神様から引き離すために、様々な巧妙な手口で信仰者を試みたり、誘惑したりすると申しました。現代では、特に都会では麦などをふるいにかけて殻やごみを取るという作業を見ることがなくなりましたが、強い風力や激しく振るう揺さぶりで殻やごみを飛ばすことができます。「ふるいにかける」とは、ふっ飛ばされてしまうぐらいの勢いで信仰が試されるということです。

それでは、どのようにふるわれ、どのような揺さぶりがあるのでしょうか。それは人間関係の中にあります。弟子たちの間にあった不一致、不協和、無理解、不信感です。わたしたちはみんな弱さを持っていますから、八方美人にはなれません。性格の合わない人や価値観の違う人とはうまくやっていくのは難しいです。サタンは、そのようなところをついてくるのです。宗教に対する不信感や人に対する不信感を抱かせると色々ありますが、最も多いのは、人間関係につまずかせて、「ふるいにかける」ということが多いです。

わたしたちの周辺には、自己中心的な人、関係性を築くことが不得意な人、優柔不断な人、忙しすぎて周りが見えない人、疲労困憊な人、常に綱渡り状態の人、プレッシャーを感じてストレスを常に持っている人など、様々な人が存在します。平気で人をつまずかせたり、いとも簡単に人につまずいたりする人、または自分にもつまずいたりして、人間不信、社会不信になって、多くの場合、人のせいにばかりするのです。

サタンは、わたしたちのそのような心の隙間にさっと入ってきて、わたしたちの心に不安や恐れ、怒りや憎しみを植えつけたりします。そして、「もっと自分を愛しなさい、面倒なことには関わらないほうがいい、もっと自分のために時間や富などを使って人生をエンジョイしなさい」と甘い言葉で言い寄って誘惑してきます。

イエス様の弟子たちの間でも不一致、どんぐりの背比べがあったのですから、今の教会の中で不一致が起こったり、競争があっても何ら不思議ではありません。しかし、そういうことが人々をクリスチャン不信、教会不信、キリスト教不信、神を信じないことにつなげてゆくのです。例えば、牧師であるわたしが皆さんの心を傷つけるような配慮のない言葉を言ったとしたら、牧師不信になるでしょう。サタンのふるい、揺さぶりというのは、わたしたちを不信にさせることなのです。榊原康夫という神学者の著書に、「信仰を維持できているほうが、むしろ驚くべき奇跡」とありました。本当にそうだなぁと思います。

ペトロの手紙一の5章8節から10節(p434)に、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟姉妹たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる」との励ましと約束があります。これを信じて、主の言葉に従うのが信仰生活なのです。

さて、32節前半に、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とあります。「しかし」という言葉が重要です。ここでイエス様は、シモンのために、シモンの信仰がなくならないように神様へ執り成しの祈りをしてくださったことが記されています。これは、主イエス様のシモンに対する愛情が表れている言葉です。

今回、神様に許可されたサタンがシモンをふるいにかけましたが、ルカ福音書3章17節を読みますと、そのように人々をふるいにかけるのは、本来、救い主(イエス様)の業であるとバプテスマのヨハネは言っています。しかし、わたしたちをふるいにかけるはずのイエス様が、ここでは弟子たちを支える側に立っています。その理由は、弟子たちには彼らに寄り添い、助け、励ます存在が必要であったからです。混沌とした現代を生きるわたしたちにもイエス様が伴って歩んでくださることは必要です。惑わしや試練の多い現代社会の中で、複雑な人間関係の中で戦い、苦悩ともがきの連続であるわたしたちを励ましてくださる救い主イエス様が必要なのです。このイエス様を心にお迎えすることで、わたしたちの心は癒され、守られ、日々強められてゆくのです。

「ふるいにかけられる」ことは、すべて悪いわけではありません。自分の弱さを知ることができますし、イエス様と出逢って救いと信仰をいただけるチャンスにもなりますし、イエス様の愛、言葉と教え、導き、訓練、執り成しの祈りによって真の弟子として造り変えられてゆきます。「『足がよろめく』とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。」(詩編91編18節)という神様の愛を体験するチャンスとなります。

32節の後半には、イエス様のシモンに対する、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」という言葉があります。これは、イエス様がシモンに対して与えた使命で、他の福音書では出てこないルカ独自の言葉です。シモンは、この後、イエス様を知らないと3度言ってイエス様を否んでしまいます。それは彼の人生の中で最も重大な失敗を犯してしまったという事実です。しかし、イエス様は彼を愛し続け、祈り続け、失敗を赦し、福音を伝え、教会を建て上げる働き人・使徒として用います。イエス様は、自分の犯した失敗を恥じ、悩み苦しみ、痛み、自分の弱さを知るペトロを、同じように人生に挫折し、傷つき、苦悩・苦闘している人たちに寄り添い、神様に愛を分かち合う者として派遣して用いられてゆかれます。

33節には、まだ傲慢な弱さを持つシモンが、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と豪語したことが記録されていますが、これはサタンのふるいにかけられる前のシモンの言葉です。復活されたイエス様に出会、罪赦されて、新しく造り変えられる前のシモンです。シモンは、自分の言葉どおり、投獄や迫害を受けていきますので、ここでの言葉はそれを暗示していたと考えられます。しかし、主イエス様は、そのような弱さを持つシモンをそのまま受け止めて、愛されます。

さて、このシモンの言葉から何を学べるでしょうか。彼のように傲慢に生きるのではなく、自分は神様の憐れみの中を生かされている者であることをいつも覚え、主の助けの中で謙遜に生きることを選び取ってゆける信仰を祈り求めることの重要性を感じとります。つまずいたわたしたちの手を取り、立ち直らせ、主と隣人を愛する者として造り変えてくださるのは、イエス・キリストお一人です。

34節に、「イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」とありますが、主イエス様はここでシモンのことを「ペトロ(岩)」と呼び替えています。堅い岩のようなメンタルな人であっても、サタンに誘惑されてしまう時、自分の命・プライドを守るために、イエス様を知らないと、いとも簡単に言ってしまう弱さ・もろさがわたしたちにもあるのです。

そのような弱さと背中合わせに生きているのがわたしたちですが、そのような上辺だけの自信を持つ傲慢なわたしたちをそれでも愛してくださり、祈ってくださり、赦してくださり、悔い改めて立ち帰るわたしたちを待ってくださるイエス様がおられるのです。わたしたちを諦めないイエス様がおられます。このお方を救い主と信じさせていただきたいと願います。

信仰は、イエス・キリストを通して神様から与えられるプレゼント・賜物であること、それを受けなさいと差し出されていること、信仰を受けなさいと招かれていること、与えられていることを感謝したいと思います。