ルカによる福音書22章47節〜53節
前回の学びでは、イエス様がオリーブ山の麓にあるゲッセマネの園で心を注いで神様に祈られた箇所に聴きましたが、十分に分かち合えなかった部分が2点ありますので、その部分を分かち合うことから今回の学びを始めたいと思います。
22章43節と44節に、十字架の苦しみが直前に迫っていたイエス様が父なる神の御心を求めて祈っていると、「天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とあります。
この「苦しみもだえる」という言葉は、ギリシャ語ではアゴーニアという言葉が用いられていて、新約聖書ではここにしか出てこない特殊な言葉です。福音書の記者ルカは、イエス様の受難・十字架の苦しみをイエス様だけの特別なものと位置付ける目的でこの言葉を使用したのだと考えられます。
神の御子であるイエス様が、罪人(犯罪者)の一人として、「呪いの木」と呼ばれていた十字架に架けられます。神様の御心に背く者を罪人と捉えたいと思いますが、父なる神と永遠から常に一体として歩んで来られたイエス様が、神様に逆らう罪人の一人として数えられ、神様との親密な関係性から完全に切り離され、わたしたち人間が負うべき罪の代償・呪いを一身に負って十字架にかけられ、死んでくださるのです。本当に耐えられないことであったと想像します。
想像するのは自分勝手なわたしたちだけで、実際には、苦しみ悶えるほどの耐え難き苦しみであったはずです。わたしたちであれば窒息死するか、心臓発作で苦しみながら息絶えるレベルの壮絶な苦しみであったはずです。ですので、イエス様の父である神様は、天から天使を遣わして、イエス様を力づけられたのです。父なる神様が天使の働きを通してイエス様に伴われるのです。
ご自分の子を犠牲にしてでも、神に背いて歩む者たち、わたしたちを愛し通し、罪と死から救い出すために、神様はそうされるのです。ヨハネ3章16節に「神はその独り子を賜ったほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とあるように、これが神様の御心・願いであるからです。
もう一つ注目したいのは45節です。人生の中で最も苦しい祈りをされたイエス様の苦しみが大き過ぎて立っていられず、跪いて、かがみ込んで自分の思いを正直に神様にお伝えし、それでも神様の御心を第一にされたイエス様は祈り終えられた後に「立ち上がり」ます。「立ち上がる」は、アニステーミというギリシャ語で、特別な意味のある言葉です。
イエス様がご自分の受難と復活について弟子たちに話した際、次のように言われました。18章31節から34節です。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」と言われましたが、弟子たちはイエス様の言葉の意味が理解できませんでした。その理由は、「彼らにはこの言葉の意味が隠されていた」とありますが、彼らが真意を知る時ではまだなかったからという意味で、「人の子は三日目に復活する」と言われた「復活する」という言葉が、実は「立ち上がる(アニステーミ)」なのです。
つまり、イエス様が祈り終えて「立ち上がった」というのは、祈る前まではイエス様には「この杯を取り去ってほしい」という気持ちが正直あったけれども、祈り終えた後には、神様の御心・願いを第一優先する者に変えられたという出来事があり、そこには神様のタイムリーな介入と励ましがあったと考えられます。
それでは、今日において、イエス様を救い主と信じてバプテスマ(洗礼)を受けるとは、神様の助けと励ましの中で、罪にまみれたこの世の生活にイエス様と共に死に・決別し、神様の愛と憐れみの中で新しい命を受けて、神様の御心を行う人として復活するという意味があると思います。そして、そのような信仰に新鮮さと輝きのある生活を維持するためには、神様への日々の「祈り」が絶えず必要であるとイエス様は教えられます。
イエス様と心を一つにしようとしない弟子たちはぐっすり眠っていた弟子たちに対して、イエス様が「誘惑に陥らぬように起きて祈っていなさい」と言われましたが、この「起きていなさい」の「起きて」は、「復活」という意味のあるあの「アニステーミ」です。わたしたちが日々の生活の中であらゆる誘惑に打ち勝つ唯一の方法は、イエス様の言葉に聴き従い、祈りの生活をすることなのです。
さて、今回の学びの本題に入って参りましょう。47節に、「イエス様が(弟子たちに)まだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。」とあります。この節に注目すべき点が二つあります。
一つ目は、ユダのことをルカはあえて「ユダという者」と記している点です。なぜ単に「ユダ」と記さずに、「ユダという者」と記したのか、誰もが不思議に思うと思いますが、「ユダ」という名前の意味は「神は祝される」です。つまり、イエス様を裏切る者にあまりにも似つかわしくない名前なので、ルカは「ユダという者」と記したようです。
二つ目は、そのユダが「イエスに接吻をしようと近づいた」という点です。日本にはこのような風習はありませんが、パレスチナや中東、ヨーロッパでも挨拶として頬に口づけをし合う風習があります。「平和の挨拶」です。しかし、ユダの口づけにはそういう「平和」はありません。自分が口づけをする者が捕まえるターゲットであると知らせるための合図であったからです。ルカ福音書では、詳細を割愛していますので、時間を作ってマルコ14章43節以降とマタイ26章47節以降を読まれることをお勧めします。
ルカが詳細を割愛する理由は、今回の箇所にあるイエス様の三つの言葉にスポットライトを当てて、その言葉にわたしたち読者を集中させるためです。第一の言葉は48節です。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」というユダに対する主イエスの言葉です。聖書を読みますと、口づけを装って人を裏切るという前例は複数あります。創世記27章27節にある兄エサウの長子の祝福を騙し取ろうとする弟ヤコブの父イサクに対する口づけであったり、サムエル記下20章9〜10節にある出来事があります。
イエス様は、「相手への親しみと尊敬を表す口づけの挨拶で人の子を裏切ることは良くない。わたしはあなたを愛しているがその愛に対して愛を装って偽りの挨拶をすることは良くない。」とユダの良心に面と向かって問いかけています。福音書には記されていませんが、もしかしたら、イエス様は愛と憐れみをもって、「ユダよ、今からでも遅くない。悔い改めてわたしの許に戻りなさい。」とユダを招いておられるのかもしれません。
49節では弟子たちとは記されていませんが、イエス様の周りにいた人々は、群衆が突然現れ、イエス様を捕えようとしている雰囲気を悟ったので、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言います。そのうちの一人が残念にもイエス様の言葉を待たずに、「大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」と50節に記録されています。
わたしたちの中にも、イエス様の指示を待たずして、自分の感情の赴くままに行動に移してしまい、失敗をくり返すという短気で軽率な人がいます。その代表格がこのわたしですが、わたしたちに大切なのは、どのような時にも冷静さを保ち、慎重に行動するために「一呼吸置く」ということで、それはイエス様を信じて、主の言葉をまず待つということです。イエス様に目を注いで、イエス様はなんと言われるか、イエス様ならどうするだろうかと考えてみる事です。それがないと、わたしたちは自分の判断だけで取り返しのつかない間違いを犯してしまいます。
剣で人を傷つけるという、決してやってはいけない行為に対して、イエス様は、51節で「やめなさい。もうそれでよい」と言われます。これがイエス様の第二の言葉です。剣をもって人を傷つけたのは一人でしたが、ほぼ全員の弟子たちが怒りや憎しみという剣を心に抱いたと思います。イエス様の言葉は武力がエスカレートしないようにする抑制の言葉です。
イエス様のお考え、神様の御心は、人を傷つけることではなく、人の心を癒すことです。その象徴としてイエス様がなされたのが、耳に大きな傷を負った人の耳をすぐに触れてその人の体と心を癒されたことです。このイエス様の救いの御業が、あらゆる暴力・武力行使を主が否定される証なのです。イエス様を信じる者は武器を手にしてはならないのです。
平和への道は、まず神様に祈って、神様から助けを受けて、相手と真摯に向き合って、対話をし、両者にあるありとあらゆる不安、不安と恐れからくる不満を取り除いてゆくことです。イエス様の言葉と、そして愛と忍耐のある対話が真の平和をもたらすのです。
52節と53節の、「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。』」が、イエス様の第三の言葉です。
イエス様を捕らえに来た群衆の中に、祭司長、神殿守衛長、長老たちがいたというのは、彼らがユダと一緒にイエス様の謀殺を練っていたからでしょう。ユダにはサタンが入っていましたので、祭司長たちもサタンに肩入れをしていた事になります。イエス様はそのような祭司長たちに対して、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と言われます。これは、サタンが今後すべてを支配してゆくという意味ではありません。
神様の壮大な救いのご計画に中で、イエス様が祭司長たちによって苦しみを受けられ、十字架上で贖いの死を迎えることを許可しているということです。神様とイエス様の許可のもとに、闇の力、サタンの力が振るい始めます。これからイエス様は捕らわれ、暴力を受け、不当な裁判を受け、十字架に架けられてゆきます。福音書の中でもっとも暗い部分です。
しかし、その暗い部分をイエス様がわたしたちの代わりとして通ってくださったので、わたしたちに救いが与えられるのです。その所を大切に心に納めて歩む者とされてゆきたいと願います。この暗闇の先に、イエス様の「復活」があり、十字架と復活を通して、わたしたちに救いがあり、希望があり、平安があり、永遠の命があるのです。