わたしを求めて生きよと言われる神

「わたしを求めて生きよと言われる神」 十二月第二主日礼拝 宣教 2024年12月8日

 アモス書 5章4〜15節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝は、今年一番の冷え込みということです。寒い中、大久保教会の礼拝に出席くださり、ありがとうございます。クリスマスクランツのろうそくに火が二つ灯りました。アドベントの第二週目を過ごしてゆく中で、イエス様の「ご降誕」と「再臨」を覚えて歩んでゆきたいと神様に励ましと導きを祈る者です。空気が乾燥し、寒暖差が激しい中、風邪、インフルエンザ、マイコプラズマ肺炎、新型コロナの感染が流行っています。無理をすると免疫力が低下しますので、どうぞ気をつけて日々お過ごしください。

 

さて、「わたしたちを待たれる神」というテーマで、旧約聖書から聴いていますが、先週に引き続き、今朝もアモス書から神様の語りかけに聴いてゆきます。先週は、「あなたの救い主と出逢う備えをせよ」というテーマで、アモス書4章からお話ししました。神様はわたしたちと出逢ってくださり、その出逢いの中でわたしたちが神様に立ち返ることを神様はひたすら待っておられることを聴きました。今朝は、続くアモス書5章から、「わたしを求めて生きよ」とわたしたちを招かれる神様について聴いてゆきたいと願っています。

 

このアモス書を1章から3章までを読んでゆく時、神様の言葉に従わず、その結果分裂した北王国イスラエルと南王国ユダがその後も神様に対していかに罪深い生活をしていたかが記されています。彼らの罪というのは、神様よりも自分たちの都合が常に優先され、都合の良い時にだけ礼拝を献げ、献げても何ら痛くもかゆくもない程度の僅かな献げものを献げ、自分は御心に適った礼拝をささげていると錯覚し、自分は素晴らしい礼拝者であると自分に酔いしれ、自己満足に浸っている、しかし神様に対する感謝も喜びも本当はない、心が伴わない形骸化した見せかけの礼拝、偶像礼拝でした。

 

そういう間違った「礼拝」を献げているイスラエルの民の信仰姿勢を正す目的、悔い改めさせる目的として、神様は5つの警告を発します。それは、飢餓、異常気象、イナゴの大群、疫病、戦争、災害などです。これらの警告はすべて過去形になっていますが、これは将来への預言であり、神様の言葉は確実に成就するから、今日ためらわずに悔い改めなさいと促すのです。神様は民が悔い改めて神様に立ち返ることを期待して待っていました。「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」とイスラエルに対して神様は言われるのです。

 

4章12節に、「それゆえ、イスラエルよ、わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに、イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。」と預言者アモスを通して神様は言われ、神様が民を裁くために来られるから待っていなさいと言われます。先週のメッセージでは、わたしたちが悔い改めて神様に立ち帰るために救い主イエス・キリストをお遣わしくださったこと、このイエス様の愛によって救われ、励ましによって神様の御許に立ち返ることができるという福音を聴きました。イエス様と個人的に出逢っていない、まだ信じていない方々は救い主に出逢う備えをするように、すでにイエス様と出逢って、イエス様を信じて従っている人々は、イエス様が再びこの地上に来られるので、その備えをすることが神様の御心であるということを聴きました。

 

神様の御心、願いは、すべての民が悔い改めて、神様に立ち返って、神の民として生きることです。神様との豊かな交わりの中で永遠に生きることです。しかし、すべての人が神様の期待通りに神様に立ち返るわけではありません。人間というのは、本当に浅はかで、愚かで、頑なです。絶望的な程までに、神様に立ち返りません。それゆえ、人々は闇の中にとどまり続け、齢を重ねる中で朽ちて滅びてゆくのです。

 

そのような民の愚かさを神様は悲しみ、哀歌を歌います。5章の2節と3節です。「イスラエルの家よ、この言葉を聞け。わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を。『おとめイスラエルは倒れて 再び起き上がらず、地に捨てられて、助け起こす者はいない。』まことに、主なる神はこう言われる。『イスラエルの家では 千人の兵を出した町に、生き残るのは百人。百人の兵を出した町に、生き残るのは十人。』」と、イスラエルの滅亡を歌います。しかし、それが神様の願いではありません。神様の願いは民が立ち返って生きることです。

 

神様というお方は簡単に諦めるお方ではありません。簡単に民を捨て去るお方ではありません。自分たちの頑なな意思で滅びに向かっているわたしたちをそれでも諦めないで救いの御手を差し伸べられるのです。そのような愛のお方です。聖書に、神にはできないことは何一つないと記されています。救い主を処女から誕生させることもできる、可能なのです。しかし、神様にできないことが一つあります。不可能なことがたった一つあります。それは何でしょうか。それは罪を犯し続ける弱さを持つわたしたちを愛することが止められない、わたしたちを愛し続けることが止められないということです。わたしたちを諦めきれない、悔い改めて立ち返ることをずっと待っていてくださる、その愛を注ぐことが止められない。

 

その愛の神様が今朝、わたしたちにこう言うのです。4節です。「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」と。6節にも、「主を求めよ、そして生きよ。」とあります。これがわたしたちに対する神様の願い・御心なのです。わたしたちが神様を求めるということ神様は待っておられます。神様を求めたら、どうなるのでしょうか。わたしたちは、無に帰する、滅びることなく、永遠に生きる者と神様によって変えられるのです。それが聖書に記されている神様の愛、真の愛の最大の目的なのです。

 

神様を求めるというのは、偽物を求めるな、目の前のものに心奪われるな、偶像を拝むなということでもあります。5節に「ベテルに助けを求めるな ギルガルに行くな ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され ベテルは無に帰するから。」とあり、偶像礼拝から完全に離れて、真の神様、愛の神様を礼拝しなさいと言われています。

 

今朝は、「神様を求める」という時の「求める」とはどういうことであるのかを分かち合いたいと思います。ヘブル語には「求める」という動詞が三つあります。ダーラッシュ、バーカッシュ、そしてシャーアルです。ダーラッシュという動詞が旧約聖書の中で最も多く用いられていますが、これは「尋ね求める」という用いられ方をします。今回のアモス書5章の「求める」は、このダーラッシュが用いられています。

 

このダーラッシュという動詞は、神様を理性的に、知的に求めるということです。神様を論理的に求めるということです。組織神学という分野がありますが、神様という存在を聖書のある一部分からではなく、聖書全体を通して尋ね求めて知ってゆくということです。それはどちらかというと、ユダヤ教的な求め方なのかもしれません。

 

それに対して、バーカッシュという動詞は、感情的に求める、また霊的に神様を尋ね求めるという時に用いられる動詞です。神様を信じるということは論理立てて、頭で理解して信じることではなく、心で神様の愛に触れて、その愛の素晴らしさを感じてゆくことでもあります。そのためにも聖霊が与えられています。

 

最後のシャーアルという動詞は、全身全霊で神様を求めるという時に使われます。つまり、ダーラッシュとバーカッシュを合わせた、非常にバランスの取れた求め方と言えます。旧約聖書の申命記6章4節と5節(p 291)に、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあります。新約聖書のマタイ福音書22章37節(p44)には、「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」とあります。

 

今朝、生きるとはわたしたちの命の源である神様を求めることであり、神様を求めるとは神様を愛することであるということを心に受け取って、感謝し、喜びましょう。生きておられる神様を生かされているわたしたちが全身全霊で求めてゆくということ、それは神様を愛してゆくということだと聖書は示します。

 

旧約聖書の時代からずっと世界は罪にまみれて汚れ、不正や不義、悪が蔓延っています。その悪の力に立ち向かって勝利する力は、わたしたちはありません。その力があるのは神様のみです。8節と9節に、「すばるとオリオンを造り、闇を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主。主が突如として砦に破滅をもたらされると その堅固な守りは破滅する。」とありますが、全宇宙を支配し、自然界を統べ治められ、悪を破滅できるお方の御名は主、神様がおられますから、この力ある神様を常に尋ね求めなければならないのです。神様を求めて、神様の愛、御翼の中に囲んでいただかなければ、わたしたちは生きることができないのです。

 

10節から13節には、不正や不義が蔓延する悪い時代のことが記されていて、今も何ら変わりはありません。物質的な物に心が奪われた時代、混乱した時代、混沌とした時代です。しかし、それでも神様はこの世に生きる人々を愛し続け、諦めきれずにおられるのです。そして14節と15節でこう言われるのです。「善を求めよ、悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。悪を憎み、善を愛せよ。また、町の門で正義を貫け。」と。

 

「善を求め、善を愛せよ」とはどういうことでしょうか。それはイエス様が示された第二の掟を実践することです。主イエス様の言葉です。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と言われました。

 

神様は今朝、わたしたちを次のように励まし、神様に立ち返るように招かれます。「わたしを求めよ、そして生きよ。善を求めよ、悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主はお前たちと共にいてくださるだろう。」と。神様を愛し、隣人を愛する者を神様は憐れんでくださいます。愛の神様と救い主イエス様を求めましょう。そこから新しい命が始まります。