「わたしたちを待たれる神」 十二月第三主日礼拝 宣教 2024年12月15日
ヨハネの黙示録 3章20〜22節 牧師 河野信一郎
おはようございます。寒い日々が続きますが、いかがお過ごしたでしょうか。今朝もご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。今朝は、DW宣教師が子どもメッセージを語ってくださって、いつもわたしのメッセージを聞いている子どもたちは、新鮮な気持ちでお話を聞くことができたのではないかと思います。D先生、メッセージをありがとうございました。福岡での働きが祝され、用いられますように祈ります。
さて、来週22日の礼拝はクリスマス礼拝としておささげします。たくさんの方々とイエス様のご降誕をお祝いしたいと願っております。ご家族やご友人をお誘いください。わたしもこの日は朝の礼拝、夕礼拝、クリスマスコンサート、そしてアメリカの教会のクリスマス礼拝と、15時間の中で4回クリスマスのメッセージをします。少しずつ準備はしておりますが、一昨日から風邪を引いたようです。役目をしっかり果たせるようにお祈りください。
もう一つお願いがあります。2024年も残すところ、あと二週間ですが、例年のように、今年も皆さんから「今年の漢字」を募集したいと思います。今年はパリでオリンピックやパラリンピックが開催されましたし、政治の裏金問題、お金目当ての闇金バイトなど、日本社会を賑わせたということで「金」という漢字が選ばれました。皆さんにも今年を振り返っていただき、皆さんの一年を象徴する漢字一文字を紹介していただきたいと願います。ちなみにわたしですが、複数牧会から単独の牧会になり、慣れるまでアタフタとしましたので、わたしの今年の漢字は、忙しいの「忙」か、焦ることもあったので、「焦」のどちらかを考えています。皆さんの今年の漢字は何でしょうか、ぜひ教えてください。楽しみにしています。
さて、今年のアドベントは、救い主イエス・キリストの誕生をわたしたちが待ち望むということではなくて、神様がわたしたちを待っておられるということを聖書から聴くこととし、11月から「わたしたちを待つ神」というテーマで、旧約聖書のイザヤ書、詩編、アモス書からご一緒に聴いてきました。神様は、わたしたちの何を求めているのか。わたしたちにどのようなアクションを待っておられるのか。今朝がこのシリーズの最終回となりますが、わたしたち一人一人が、心のドアを開いてイエス・キリストを救い主として心にお迎えすることを神様は願っておられるということを聴いてゆきたいと願っています。
救い主イエス・キリストは、十字架における贖いの死と三日目の甦りによって、わたしたちのために救いの業を成し遂げられました。その後、神様の御許に挙げられる前に、「わたしは再びこの地上に戻ってくる」と弟子たちに約束され、天に引き上げられてゆきました。しかし、その約束から2000年という長い年月、幾つもの時代が過ぎ去っても、イエス様の再臨はまだありません。何故でしょうか。嘘であったのでしょうか。いいえ、違います。真実なイエス様は嘘などつかれません。それではどうしてなのでしょうか。
新約聖書にある二つの御言葉が心に強く迫ってきます。一つは、ヨハネによる福音書3章16節(p167)、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉です。神様はあなたを、わたしたちを愛してくださり、救いを与え、永遠の命を与えたいと願っておられます。
もう一つは、ペトロの第二の手紙3章9節(p439)、「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」という御言葉です。神様によって造られ、愛されている存在であるわたしたちが一人も滅びないために、わたしたちが悔い改めて神様に立ち返ることを神様は愛と忍耐とをもって、ひたすら待っていてくださる。だから今もイエス様の再臨がないと聖書は語り、わたしたちが神様の愛を受けて、イエス様を信じて従うことが求められています。神様の許へ立ち返る者たちを大いに祝福することを主は待っておられるのです。
さて、今朝がシリーズの最終回となりますので、新約聖書から御言葉の分かち合いをさせていただこうと願っていた矢先に、わたしのここ最近の生活の中で、たいへん悔やまれることが数日前にありましたので、そのことを皆さんにぜひ聞いていただきたいと思って手短にお話ししたいと思います。先日、教会の用事で郵便局に行って、その後にいつもの花屋さんに立ち寄って教会に戻ろうとした時、家具などの中古品を売っている店の前を通りかかりました。そうしましたら、「これは自分がずっと探していた物、絶対に買いだ!」と思った椅子を見つけました。わたしは興奮しました。その椅子を即決で買うこともできなくはなかったのですが、その時に所持していたお金はわたしのものではありませんでした。また、妻の意見を聞こうと思って、写真だけ撮って帰りました。店先を去る時、男性の店員さんが「買わないと、すぐに売れちゃいますよ」と言って、わたしに売ろうとしたのですが、わたしは心のどこかで「すぐには売れないだろう」と高を括って、そこを去ったのです。
帰宅後、すぐに妻に写真を見せて買っても良いかと相談しましたが、妻は「必要ない」と言いました。けれども、わたしはどうしても諦めきれずに、数時間後に、自分のお小遣いを財布に入れてその椅子を買いに店に向かいました。しかし、到着がほんの数分遅かったのです。わたしの目の前で、お目当ての椅子が他の人に購入されてしまったのです。わたしは、「あと5分、いやあと3分、家を早く出ていれば買えたのに!いや、自分のお金ではないけれど一時的にあの時借りて買えば良かった!」と本当に悔やみました。わたしの顔を覚えていた店員さんが、「だから、すぐに売れるから買いなさいとあの時に言ったでしょ!」と言いました。わたしは内心、「そこまで言わなくてもいいじゃん」とちょっとムッとしましたが、買わなかったのは自分です。すぐには売れないだろうと高を括っていたからです。
心が平常心に戻るまで時間を要しましたが、心が落ち着いたら、神様からとっても大切な人生のレッスンを頂いたと嬉しくなりました。「これも神様の御心なんだ、あの椅子を必要としていたのはわたしではなく、買った人なのだ」と改めて捉えることができ、神様に感謝しました。皆さん、イエス様を信じることも同じです。イエス様からの救いの招きは、すぐに応えたほうが良いのです。様々なことを考えて躊躇したり、また今度チャンスが巡って来るだろうと、高を括ってイエス様を信じ従うことを待ってしまったら、イエス様を信じるチャンスを逸してしまい、一生後悔することになりかねないのです。先ほどの第二ペトロ3章9節の次の10節に、「主の日(つまり主の再臨の時)は盗人のように不意にやって来ます」と記されています。先延ばしにしたりせずに、真剣に自分と向き合う必要があると思います。
神様は、わたしたちが自分の弱さ・罪に気付いて、悔い改めて神様に立ち返ることを待っておられます。そのためにイエス様はこの地上に誕生されました。愛と忍耐をもって神様がわたしたちを待っておられるのは、わたしたちを祝福し、神の子として、永遠の命を与えたいからです。信じることが遅くなって、自分の不甲斐なさをずっと悔やみ、苦しみを抱きながら生きることがないように、神様の愛のふところに飛び込んでいただきたいと思います。
さて、このシリーズを締めくくるにふさわしい御言葉は、ヨハネの黙示録3章20節であると示されました。22節に、「耳のある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」とありますが、今朝、神様からの語りかけに耳を傾けて真剣に聴きなさいということです。
このヨハネの黙示録3章14節から22節は、ラオディキアという町にあるキリスト教会に宛てられた言葉です。このラオディキアという町は非常に裕福な町で、医療システムも他の町々よりも発展していて、生活するのには打って付けの町でした。しかし、物質的な物はすべて揃うので、神様により頼んで生きる必要性を感じない人たちがたくさんいました。ですので、彼らの信仰も、冷たくもなく熱くもないものになっていました。
ヨハネは15・16節で、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」と言い、続く17節では、「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」と言っています。物質的には富んでいても、心は実質貧しいとヨハネは厳しい言葉で悔い改めることを勧めますが、生活に満足している人たちは聴く耳をまったく持ちません。
ですから、ヨハネはイエス様にすべてを託し、20節でラオディキアの人々にこう書き送るのです。これはイエス様の言葉です。「見よ、わたしは戸口に立って、(あなたの心のドアを)たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」というイエス様の救いへの、祝福への招きの言葉があります。今朝もイエス様はあなたの心のドアを、わたしたち一人ひとりの心のドアを叩き、あなたの心の中にわたしを迎え入れてほしいと願うのです。しかし、イエス様が心のドアを叩いている音が聞こえているでしょうか。毎日の生活の忙しさ、豊かさ、疲れからイエス様のノックの音が聞こえないのです。ですから、日常から離れて、静かな場所に身を置いて、自分と向き合い、イエス様と向き合う必要があります。
また、この心のドアにはイエス様がおられる外側にはドアノブがありません。このドアを開けられて、イエス様を迎えることができるのは、わたしたちなのです。イエス様は無理やりわたしたちの心に入り込むことはしません。わたしたちの気持ちを尊重してくださいます。ドアを開けるのは、わたしたちが決断しなければならないのです。もしあなたが心のドアを開いてイエス様を迎え入れるならば、「わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とイエス様は言われます。「食事」というのは、祝いの食事、つまり天国での食事のことを言っています。
宗教に身を寄せて救いを求めることは弱い人、人生に負けた人のすることだと思い込んで、自分の力、判断力、直感だけを頼りに生きる人が大勢おられます。しかし、イエス様は宣言されます。イエス様を信じる者は敗者ではなく、勝利を得る者なのです。21節に、「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」とあります。イエス・キリストを通して神様の愛を受け取る人が永遠に神様の愛の中に生き続ける人なのです。その愛に気付き、神様に立ち返る人たちを神様とイエス様は愛と忍耐をもって待っていてくださるのです。イエス様がわたしたちの心を叩き続けてくださるのは、神様はわたしたちを諦めておられないということです。それほどまでに愛されていること信じ、その愛を今朝受け取りたいと思います。イエス様のノックが聞こえるように、残されたアドベントの時を過ごしてゆきたいと願います。