「幼子イエスの誕生に見るわたしたちへの神の本気の愛」 クリスマス礼拝 宣教 2024年12月22日
ルカによる福音書 2章1〜7節 牧師 河野信一郎
メリークリスマス! 2024年のクリスマスをご一緒にお祝いできること、このような素晴らしい機会をお与えくださる神様に感謝いたします。この大久保教会で初めてクリスマスをお祝いされる方から、半世紀以上も大久保教会で忠実に仕えられ、クリスマスの礼拝をおささげになられる方々まで、心から歓迎いたします。また、心から敬意を表します。
わたしは、まだ26回目です。もうすでに26回なのか。まだ26回なのか。多すぎるのか、少なすぎるのか、はたまた、どちらが良いのか、最近よく分からなくなってきましたが、それでも、今朝、皆さんとご一緒に賛美と祈りと礼拝をおささげすることができて、神の御子、イエス・キリストのお誕生をお祝いできる恵みを神様に感謝し、イエス様に感謝いたします。神様がイエス様をわたしたちに与えてくださらなければ、わたしたちは出逢うことはありませんでした。一緒に礼拝できませんでした。断言できます。ですから、感謝です。
サタンの試みだと思いますが、先週、わたしはたくさんの試みに遭い、神様の憐れみのうちにクリスチャンでいられることの特権を何度も、何度も再認識・再確認させられました。イエス様の僕として人々と教会に心から仕えることとは、どういうことなのかを試みられることを通して多く体験させられました。物事を天秤にかける事はあまりよろしくない事だと常日頃から思い、いつも間違いを犯さないように注意してはいるのですが、肉体的にも、精神的にも、時間的にもプレッシャーを感じてどこか挫けそうになる時、自分の今の悩みと神様に愛され、生かされ、クリスチャンとして歩むことができることを天秤にかけるのです。
そして、神様の愛の中に生かされていることがこんなにも素晴らしい特権、恵みであることを強く感じることができて、心が喜びで満たされます。そうすると、目にも止めなかった小さなことが大きな恵みであったことに気付かされるのです。神様がイエス様を通して与えてくださる「喜び」というのは、言葉では言い表せないほど大きくて、広くて、心の奥底にまで光が届いて、心が芯から暖められる「湯たんぽ」のようだと、寒さが厳しくなってきた今年は特にそう思うのです。ですから、一人でも多くの人たちに、厳しい状況の中で心が冷え切っている人たちに、この愛の湯たんぽを届けたいと、わたしは強く思うようになりました。今日は4回、神様の愛を分かち合わせていただく特権が与えられています。感謝と喜びをもって、クリスマスの「喜び」を皆さんと分かち合いたいと願います。
今年のクリスマスメッセージのタイトルは、牧師人生の中で一番長いものになったと思います。「幼子イエスの誕生に見るわたしたちへの神の本気の愛」です。今夜、同じ聖書箇所からわたしの母教会でもライブメッセージするのですが、そちらの教会では、遠慮をして、「神様の本気の愛」にしました。飼い葉桶の中にすやすやと寝ている幼子イエス様が、神様の本気の愛、わたしたちを愛するがゆえに、わたしたちに愛を届けて救う、その本気度を表していることを分かち合いたいと願っています。
イエス様がこの世にお生まれになられたのは、紛れもない事実、史実です。「昔、昔、あるところに」という昔話、おとぎ話ではありません。そのことをはっきりさせるために、ルカという人は、5W1H という手法を取ります。これは文書を書く時、情報を整理して伝達する時に用いられる手法です。わたしもアメリカでこれを叩き込まれました。最近では7W2Hにバージョンアップしているのを知って驚きましたが、5W1Hとは、who誰が,what何を,whenいつ,whereどこで,whyなぜ and howどのように、ということをはっきり示すことで分かりやすい文章を書くことができ、より良いコミュニケーションを取ることができます。順番を少々変えますが、これならば、イエス様の誕生がフィクション・昔話ではなく、実際にあったこと、史実であることがよくお分かりになられると思います。
*いつ:「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったとき」と1節と2節にあります。
*どこで:「ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」と4節にあります。
*誰が:4節と5節に、「ダビデの家に属し、その血筋であったヨセフと、身ごもっていた、いいなずけのマリア」とあります。
*何を:6節と7節ですが、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み」とあります。
*どのように:「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」と7節にあります。
しかし、ここには「なぜ」がありません。それは、福音書全体に神様の愛の理由が記されているからです。この神の御子、イエス・キリストによって、わたしたち一人ひとりが、あなたが神様に愛されている存在であること、それを知らせるために福音書はあるのです。
最近の7W2Hでは、whichどちらを,whom誰に,How muchいくらを含めるそうですが、神様の愛にはどちらはありません。みんな同じ愛、ブレのない平等の愛です。誰に、それはすべての人に注がれていて、一人も漏れないように注がれています。いくら?、神様の愛はお金や努力では得られません。すべて無償なのです。いくらですかと人間の持つ尺度で測ることができない、天文学的数字を遥かに超えるレベルの愛、プライスレスの神様の愛です。
この愛が、あなたに、わたしたちに、すべての人にプレゼントされています。この愛を受け取りなさいと、すべての人が招かれています。その招きのために、クリスマスが毎年祝われているのです。神様とイエス様は、この愛を受け取る人たちを待っておられます。イエス様は愛と忍耐と祈りをもって、一人ひとりの心のドアをずっと叩いておられます。一人でも多くの人たちに神様の家族に加わって欲しいからです。皆さんは、この心のドアのノックに気付き、ドアをすでに開けられたでしょうか。それとも、ノックの音がやっと聞こえ始めたでしょうか。今ひとりで悩んでおられるでしょうか。色々なことを考えて、ドアを開けることを躊躇されているでしょうか。ドアを開けるか、開けないか、あなたの自由な意思に任せられています。イエス様は強制など一切されません。わたしたちの思いを尊重されるのです。
少し想像してみてください。閉じられたままのドアと開けられたドアがあなたの目の前にあります。ドアが閉じられたままだと、現状に留まり続けることになります。現状がすべて悪いわけではないでしょう。素晴らしい体験を過去にしてこられたでしょう。しかし、そのような良い面だけでなく、解放されたい苦しみもあるかと思います。ドアを開ける時、心が騒ぎます。本当に大丈夫だろうかと心配になります。
しかし、心配はありません。なぜか。あなたを創造し、あなたを愛し、あなたを大切な存在だと思っているイエス様がノックされているからです。イエス様はノックされているドアを開けると、今までに経験したことのないような、素晴らしいこと、新しいことが始まります。それは、イエス様と共に生きるという新しいライフスタイルです。イエス様が、どのように生きることがわたしたちにとってベストであるかを教え、導いてくださいます。何を大切にして生きることが人生をさらに豊かにするかも、イエス様が教えてくださいます。どこに向かって歩んでいるのかも、人生の方向性も教えてくださり、常に助けてくださいます。
7節に、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあります。ヨセフと妊娠しているマリアが大変な思いをしてガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムに来たのに、彼らが体と心をゆっくり休ませる場所がなかったのです。町中の宿屋のドアをヨセフは叩いたでしょう。しかし、彼らの滞在できる場所は、家畜小屋以外になかったのです。生まれた幼子イエス様が布に包まれて寝かせられたのはベッドではなく、不衛生な飼い葉桶であったのです。せっかく神様が救い主をわたしたちのもとにお遣わしくださったのに、せっかくイエス様が父なる神様の許を離れて、人間の形をとってこの世に誕生してくださったのに、イエス様を信じる人は少ない。しかし、それでもイエス様はお生まれくださった。そこに神様の愛の本気度があると思うのです。神の本気の愛がイエス様の誕生に表れているのです。
わたしたちが日常生活に忙殺されすぎているのか、豊かさにある程度満足してしまっているのか、人生こんなもんだろうと納得してしまっているのか、どこかでもう諦めているのか、実際のところ良く分かりませんが、心のドアを開けないでイエス様を心の外に立ちっぱなしにさせておくのは、本当に良いのかなぁと思います。わたしたちの心って、そんなにたくさんのすごいもので満たされているのでしょうか。喜び、平安、希望、満足感で満たされているでしょうか。その反対に、悲しみ、不安、恐れ、怒り、不満、痛みで満たされていないでしょうか。それらを隠し続けたいから、ドアを開けないままでいるのかもしれませんが、いつまでそうしているつもりですか。これからもずっとそれらの苦しみを抱えたまま生きてゆかれますか。本当にそれで大丈夫ですか。神様は大丈夫だと思っておられないです。神様はあなたを本気で愛しています。本気であなたを救いたいと願っています。何度も拒まれるのを知っていても、それでもあなたを、わたしを、わたしたちを神様は愛してくださる、愛を受けなさいと今日も招いてくださるのです。心のドアを開いて、どうぞこのかけがいのない愛をお受け取りくださり、大きな愛と喜びを味わってください。メリークリスマス!