アフタークリスマス:聖霊によって救い主を見る

「アフタークリスマス:聖霊によって救い主を見る」 年末感謝礼拝 宣教 2024年12月29日

 ルカによる福音書 2章21〜38節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。2024年の最後の主日を迎えました。インフルエンザが猛威を奮っている中で、お休みの方が多くて残念ですが、礼拝堂に集められた皆さん、そしてオンラインで礼拝をささげてくださっている方々と共に礼拝をおささげできて、本当に感謝です。

 

この1年の中で神様から受けた恵みを数えたいと思いますが、あまりにも多過ぎて時間が足りません。たくさんの別れを神様は備えられましたが、それ以上の新しい出逢いを与えてくださいました。苦しみ悩むこともありましたが、それ以上の喜びを与えてくださいました。課題も山積していますが、それに取り組む仲間が与えられ、大勢の人々の祈りに支えられ、主の憐れみにいつも助けられました。聖書に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。それがイエス・キリストにあって神があなたがたに求めておられることである」とありますが、主イエス様にあって、すべてを主の御心と信じて、感謝して、今週水曜日から始まります新年を歩み出してゆきたいと思い、願い、祈ります。

 

さて、今年のクリスマスは、ルカによる福音書2章1節から20節をテキストに聴いてまいりましたが、今朝はアフタークリスマスの出来事についてご一緒に聴いてゆきたいと願っています。2章21節から読み進めますと、イエス様がお生まれになられて8日後のことが記されています。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。

 

神様とイスラエルの民との間に交わされた約束のしるしとして男児に割礼を施すことと名前を付けることは家族にとって非常に大きなイベントですが、彼らは旅の途中でありましたので、家族3人だけで祝うことになりました。多くの親族や友人達に一緒に喜び祝ってもらいたかったでしょうが、ここで重要なのは、この夫婦は御使ガブリエルから示された名前を子に付けたという事です。つまり神様の言葉、ご意志に従ったという事です。「イエス」という名は「主は救い」という意味で、このイエス・キリストを通して、すべての人に豊かな祝福が与えられるのです。

 

イエス様の誕生の出来事を締めくくる出来事が22節から40節までに大きく4つの出来事として記されていますが、今朝はそのうちの3つに注目します。まず22節から24節が最初の出来事ですが、ここではヨセフとマリアは律法に従って、幼な子イエス様を神様に献げるためにエルサレムの神殿に来たことが記されています。彼らがいかに神様を第一にし、御言葉に従う忠実な夫婦であったということがここから分かります。

 

「22さてモーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23それは主の律法に「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24また主の律法に言われているとおりに山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」とあります。

 

22節に「清めの期間」とあります。産後の母の清めについての規定が旧約聖書のレビ記12章に記されていますが、子どもを産んだ女性が宗教的に汚れている期間は、男児出産の場合は33日間とされていますので、イエス様が誕生してから1ヶ月ほど経過した時期のことがここに記されています。23節に記されている「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」ということは、出エジプト13章(2、11〜12、15節)を背景に記されています。

 

ここで重要なことは、イエス様が「神のために聖別される」ということです。聖書には、神様のために献身して生きる人が聖別されると「ナジル人」と呼ばれますが、バプテスマのヨハネも「ナジル人」と呼ばれました。イエス様も、神様のために生きる人として、両親によって神様に献げられ、聖別されたのです。そのような者は、祭司によって祝福の祈りを受けることが民数記6章の22節から26節にあるのですが、それが次の25節から35節にあるシメオンという人の賛美と重なります。

 

25節から27節に、「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た」とあります。

 

ここに「聖霊」がいつも共にいるシメオンという人が登場します。なぜ彼に神様の霊がとどまっていたのでしょうか。それは神様が聖霊によって彼を守り、導き、救い主を見せるためでした。聖霊を通してシメオンは決して死なないという約束を信じることができ、聖霊に導かれて神殿の境内へと行き、そしてまだ生まれて一ヶ月ほどの乳飲み児が救い主であると見極めることができ、神様をほめたたえました。

 

わたしたちも、聖霊の導きと励ましによってのみ、イエス様を救い主と認めて信じること、告白し、日々ほめたたえることが可能になります。自分の力だけでは救い主を見ることはできないし、告白することも賛美することもできないのです。すべては神様の愛の力、憐れみによって、イエス様を信じ従うことができるようになるのです。

 

このシメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」とありますが、「慰められること」とはどういう意味でしょうか。この「慰め」という言葉は「パラクレーシス」というギリシャ語が使われていて、「励まし」とも訳されます。この言葉は合成語で、「傍らで」、「声をかける」という二つの言葉から成り立つ言葉です。

 

つまり、シメオンをはじめイスラエルの民たちが切に求めていたのは、主なる神様が傍らに立って声をかけてくれること、「わたしはあなたといつも共にいるよ、あなたは独りではないよ」という慰めと励ましの言葉、救いを求めていたということが分かります。そしてその願い通りに、「神われらと共にいます」というインマヌエルの神、救い主が誕生したことをシメオンは聖霊によって知り、救い主を見て、感謝と喜びの賛美をささげるのです。

 

それが28節から32節の「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、 あなたの民イスラエルの誉れです。』」という言葉です。

 

シメオンは、自分の腕の中にいる救い主は万民のため、すなわちわたしたち異邦人とイスラエルの民のために神様が備えてくださったメシア・救世主であると告白し、賛美します。そのようにできたのは、神様の霊・聖霊がシメオンと共にいて励ましてくれたからです。

 

33節に父ヨセフと母マリアは「幼子についてこのように言われたことに驚いていた」とありますが、彼らが驚いたのはシメオンが神様の御心を知っており、主を賛美しつつ幼子を祝福したから、「ここにも神の御業を信じ、感謝している人がいる」と知ったからです。

 

さて、シメオンはここまで主を賛美しましたが、34節と35節では対照的に幼子の受難と死を予告します。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」と言います。

 

イスラエルの救いのために生まれたイエス様は、イスラエルから拒絶される、すなわちイザヤ書8章14節にあるように、「イスラエルのつまずきの石、救いを受ける妨げの石、仕掛け網、罠」となります。しかし、イザヤ書28章16節には、イエス様につまずかない人たちの「信仰の礎の貴い隅の石」となるとあります。イエス様を神様から遣わされた救い主と信じる人は祝福されるが、信じない人はイエス様を拒絶します。それ故に35節でシメオンはマリアに対して「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言っています。愛する子が十字架上で殺される時、マリアは剣で心を刺し貫かれるほどの悲しみ、苦しみを味わったと推測しますが、イエス様の苦しみは、わたしたちを罪から救うためであったことを覚えましょう。

 

36節から38節に、アンナという女預言者が登場しますが、ここで注目すべきは彼女の年齢です。2000年前の84歳です。ルカ福音書に登場する人物は、ヨセフとマリアと羊飼い以外は、みんな高齢者です。バプテスマのヨハネの両親ザカリアとエリサベトも、今回のシメオンもいつ死を迎えてもおかしくない年齢でした。ルカという人は長かった旧約の時代が今や終わりに近づき、新時代が来ているということを若いヨセフ夫婦と御子イエス様の誕生と、それ以外の人達の年齢で表そうとしたと考えられます。アンナの素晴らしさは、神殿から離れずに、夜も昼もずっと神様に仕え続けたということです。そのような神様に忠実な僕に神様は彼女のために聖霊によって救い主を見せるのです。

 

アンナは神を賛美し、救い主の誕生を人々に話して聞かせます。それらもすべて聖霊の助けと励まし、導きの中で行われます。どんなに歳を重ねていても、イエス・キリストが救い主であると告白し、賛美すること、感謝をささげることは、わたしたちにもできるのです。わたしたちに大切なのは、信仰をもって、その恵みを受け取って生きることです。いつも喜んで、絶えず祈り、すべてを主に感謝して歩みましょう。