神が良しとされる年を歩むために

「神が良しとされる年を歩むために」 一月第一主日礼拝 宣教 2025年1月5日

 申命記 6章16〜25節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。新しい年を迎え、その最初の日曜日、主の日の朝に皆さんとこの場所に集い、ご一緒に賛美と礼拝を神様におささげすることができて感謝です。2025年は、皆さんにとって、どのような年になるでしょうか。神様は、どのような日々をわたしたちに準備されているでしょうか。主に期待します。2025年は、大久保教会にとって、教会創立60周年の年となります。どうぞその事を覚えて神様からのさらなる祝福をお祈りください。

 

さて、わたしにとってなのか、大久保教会にとってなのか、あるいは両方にとってなのか分かりませんが、今年がどのような年になるのか、その予告編のような出来事が元日の朝にありましたので、少し分かち合いたいと思います。大晦日から熱を出し始めていた娘の一人が翌朝にさらに熱が上がり、元旦礼拝に出席することができなくなりました。追い打ちをかけるかのように、11時から元旦礼拝をささげることになっていましたが、10時55分になっても礼拝者が誰もいらっしゃいません。奏楽を担当しますもう一人の娘が、「ほんとに礼拝、ささげるの?」と真剣な眼差しでわたしに問いかけます。わたしは、「神様に礼拝をおささげするのは当然のこと。誰もいらっしゃらなくても礼拝はささげます」と答えました。

 

しかし、心の中では神様に祈っていました。11時になりましたが、礼拝堂には家族以外まだ誰もいません。それでもいつものように礼拝の最初の挨拶をし、礼拝への招きの言葉を読みました。そうしましたら、賛美をささげる頃に女性が二人、礼拝堂に入ってこられましたが、お二人とも教会員の方ではありません。けれども、その後、芋蔓式に教会員の方々とそのご家族の方々が礼拝堂に入ってこられました。海外の方々には、「芋蔓式」という言葉は聞き慣れないかもしれませんね。礼拝堂に次から次へと入って来られたという意味です。

 

そのような光景を目の当たりにした娘がどのように感じたか聞きませんでしたが、わたしは心のうちで神様の憐れみを感じ、心から主に感謝しました。3人しか礼拝堂にいなかったのに、一瞬で4倍の12人になりました。12人、とても少ない人数だと思われるでしょうか。いいえ、遠い過去に10人で元旦礼拝をささげた事もあります。その朝、奏楽者がおらず、ゲストの方に奏楽をしてもらいました。そんなことも過去にありました。わたしは感じます。大久保教会にとって、2025年というのは、神様の憐れみを感じる年、その憐れみに感謝する年になるのではないかと感じます。皆さんの一年はどのような年になるでしょうか。

 

礼拝堂に礼拝者が大勢集められても、集められなくても、神様に礼拝をおささげすることを大切にしてゆきたいと思います。わたしたちは、いつか必ず、この教会から離れる時が来ます。集えなくなる時、終わりの時が必ずあります。わたしも、あと何十回、この講壇に立ってメッセージできるか分かりません。ですから、わたしは、今年、毎週日曜日の礼拝を大切にしたいと強く思うのです。朝の礼拝と夕べの礼拝を大切にし、御言葉の分かち合い、メッセージができることを喜び、感謝したいと思うのです。皆さんにも、礼拝を大切にしていただきたいと思いますが、わたしよりも神様がそう願い、期待されているのだと思います。

 

お恥ずかしい話ですが、昨年の年末、いつになく、人々から「良いお年を!」と言われることが嬉しくありませんでした。ですから、わたしも人々に「良いお年を!」と言いませんでした。クリスマスの疲れが精神的に溜まっていたのでしょうか、心が疲弊し、すさんでいたからでしょうか、「良いお年をお迎えください」と言われる度に、「良い年」の「良い」という意味がよく理解できませんでした。そのように言ってくださる方々は、わたしが迎える新しい年が良い年になることを願って、そう言ってくださるのでしょう。しかし、わたしは「良い年ってなんだろう。何を基準に『良い』と判断するのだろう」と悶々としていました。牧師も人間です。心がいつもより疲れていたのだと思います。不満に思うこと、不安に感じることが色々あったからだと思います。新しい年が「良い年であるように」と願っていても、負担に感じることも心にたくさんあるのだと思うのです。

 

皆さんにとって、どのような年であれば「良い年」なのでしょうか。どのような年が「悪い年」なのでしょうか。悩むこと、怒ること、痛むこと、悲しむことが多いと悪い年で、毎日が嬉しいことの連続であれば良い年なのでしょうか。わたしたちが願ったり、理想的と思う日々の積み重ねが「良い年」になり、計画や願いとは大きくかけ離れる日々の割合が多いならば、それは「悪い年」になるのでしょうか。様々なことを考えている中で、「良い・悪い」を判断するのはわたしたち人間ではなく、神様ではないかと考えるようになりました。

 

素晴らしいデザインの中で、神様とイエス様と聖霊が天地万物をご計画どおりに形造られた時、三位一体の神はそれらをご覧になられて7回も「良い」と力強く宣言されました。誰に宣言されたのでしょうか。まずご自身に対してです。神様自身が満足されたということです。また、わたしたち人間に対しても、全てが良いと宣言されたのです。わたしたちは、神様が良しとされた創造の業、自然の中に日々生かされているのです。

 

神様はわたしたちがその祝福の中でどのように生きているか、何を成しているか、何を成していないかを全て見て知っておられます。「全て」とは、わたしたちの良い生き様も、悪い生き様も、ということです。良い生き様とは、神様の喜ばれる、神様が満足される生き様ということです。悪い生き様とは、神様が喜ばれない、神様の御心に反した生き様ということです。つまり、わたしたちの生き方を見て、それを「良い」、「悪い」と判断できるのは神様だけだと思うのです。そのことを判断されるのは、わたしたちが神様の御前に立つ時なのです。しかし、わたしたちの生き方というのは、多くの場合、独り善がりが多いのです。

 

それでは、神様はわたしたちにどのような生き方、新しい年をどのように歩むことを期待されているのでしょうか。今朝のメッセージのタイトルを「神が良しとされる年を歩むために」としましたが、聖書には、「良い」という言葉とそれに関連する言葉が608回使われています。この「良い」という言葉は、様々な用いられ方がされていて、元日からその一つ一つを調べています。そしてその中で最初に目を引いたのが今朝の申命記6章でした。

 

この申命記は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記をあわせてモーセ五書と呼ばれているものです。この申命記は、エジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民を導き出し、その後40年にわたって荒野の旅を導き、いよいよ約束の地へ入ってゆくイスラエルの民に対してモーセが語った3つの説教が記録されています。しかし、モーセは約束の地に入ることはできません。ですから、この申命記はイスラエルへのモーセの告別説教なのです。

 

モーセの第一の説教は、40年間の荒野の旅の回顧・振り返りです。第三の説教は、約束の地に入っても神様との契約・約束を重んじなさいという内容です。そして今回の6章が入っている第二の説教は、驕り高ぶらず、神様の教えに忠実に聞き従いなさいという励ましです。大久保教会としても、60年の歩みを振り返ると同時にイエス様の御言葉・御教えに聞き従うことを再決心する年、そしてイエス様との約束を再確認して、主の言葉に励まされ、更に整えられてゆく年となることが神様の期待されていることではないかと感じます。

 

この6章全体をぜひ読んでいただければと思いますが、約束のカナンの地に入ってゆくイスラエルの民に対して、モーセは「あなたたちの主なる神を畏れ、その教えを忠実に守りなさいと命じ、主の言葉に聞き従うならば、神様から幸いを得て、約束の地で大いに祝福される」と語ります。

 

その他の代表的な言葉は4節から7節です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」とあります。また10節から12節では、「あなたがたイスラエルの民を祝福されるのは主なる神であって、そのことを決して忘れないように注意しなさい」とモーセは語っています。

 

わたしたちが神様の御心に沿って歩むために必要なことは何でしょうか。16節に「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」とあります。出エジプト記17章です。「マサ」とは試すという意味です。これは荒野で生きるために必要な飲み水が尽きた時、イスラエルの民が、「果たして、主は我々の間におられるのだろうか」と言って、主の伴いと計らいを疑い、荒野で水を与えることは神でも不可能だろうと言った時のことを指しています。しかし、主なる神様は岩から飲み水を与えられたのです。

 

わたしたちの日々の歩みが神様に良しとされる方法は一つだけです。17節と18節に、「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。」とあります。この「主の目にかなう正しいこと」の「かなう」という言葉がヘブル語の「良い」という言葉になっています。そして18節の後半に、「そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入ることができる」とありますが、ここに「良い土地」とあります。御言葉を大切に聴き、御心を第一にしてゆくと、祝福に満ちた良い地へと導き入れられるのです。

 

わたしたちに信仰を与えてくださるのは、憐れみ深い神様であり、救い主イエス・キリストです。今年度の年間聖句にも、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあります。神様に良しとされる一年を歩むために何が必要でしょうか。ヘブライ人への手紙11章6節には、神様に近づく者、神様を求める人たちに豊かに報いられると記されています。礼拝、祈り、聖書を読むことは神様に近づく者、神様を求めるわたしたちに必要不可欠な日々の営みです。もう一つ大切なこと、それは20節から25節にあること。将来、子どもたちや出会っていく人たちから、「何のためにイエス・キリストを救い主と信じる信仰をもって歩んでいるのですか」と質問された時に、神様の愛・イエス様に出会って救われた証しをする事、そのように生きることが、神に良しとされて生きるということだと信じます。

 

6章24節と25節、「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」 この主の言葉を信じ、忠実に従いましょう。主は必ず共にいて、常に助け、祝福へと導いてくださいます。この言葉を受け取り、素直に信じて、先取りの感謝をささげましょう。