自分の命を与える良い羊飼い

「自分の命を与える良い羊飼い」 一月第二主日礼拝 宣教 2025年1月12日

  ヨハネによる福音書 10章10b〜18節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげできますことを主に感謝いたします。今週も、皆さんの上に神様の伴いとお護りと祝福がありますようにお祈りいたします。

 

先週から「良い」という言葉をキーワードに、神様からの語りかけを聴いています。旧約聖書で「良い」という言葉が用いられる中で印象に残るのは、「神はあなたがたを良い地へと導く」という神様の約束の言葉が多くあることです。これは言うまでもなく、イスラエルの民を約束の地・カナンの地へ神様が導かれるという約束の時に用いられるフレーズです。しかし、旧約聖書の他のところでは、「あなたの神に対する信仰は純粋か」という問いかけがされています。つまり、あなたの信仰は本物なものか、本当に神を畏れて従っている信仰か、本当は見せかけではないか、自分本位の信仰ではないかと問われる時に用いられています。自分の信仰を振り返る中で、わたしたちはイエス様を通して神様から与えられている信仰を喜び、感謝し、恵みへの応答をしているだろうかと問われているのです。

 

わたしたちの一年の歩みを良い、悪いと判断されるのは、わたしたちではなく、神様であることを先週のメッセージの中でお話ししましたが、神様はわたしたちの心の中にある何をご覧になられて喜ばれ、何を喜ばれないのかということを申命記6章から聴きました。そこには、「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。」とありました。続けて、「そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入ることができる」とあります。神様に信頼し、御言葉に聴き従い、御心を第一にしてゆく中で、祝福に満ちた良い地へと導き入れられるという約束を確認しました。この約束の地へわたしたちを導いてくださるのがイエス・キリストです。

 

今朝は、ヨハネによる福音書10章にあるイエス様の言葉に聴いてゆきたいと願っていますが、ここでイエス様はご自分のことを「良い羊飼い」と呼ばれています。このタイトルは、イエス様の頭に突然ひらめいたものではなく、旧約の時代に神様が約束されていたことなのです。その約束がエゼキエル書の34章に記されています。お帰りになられた後にぜひこの34章全体を読んでいただきたいのですが、まず旧約聖書の1352ページを開いてください。ここにイスラエルのための良い牧者、羊飼いを神様がお立てになるという約束があります。少しずつ紹介しますが、これらは主なる神様の約束の言葉です。

 

11節と12節に、「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れ(イスラエル)を探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊が散りぢりになっている時に、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。すべての場所から救い出す。」とあり、14節には「私は良い牧草地で彼らを養う」とあります。15節にも、「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」とあります。

 

極め付けは、23節から25節の前半です。「わたしは彼ら(イスラエル)のために一人の牧師を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである(これはイエス・キリストのこと)。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。」とあります。イエス様は、この神様の約束を果たすために、神様のもとからこの地上に派遣され、良い羊飼いとして歩んでくださったのです。

 

神様は何故このような約束をされたのかという根本的な理由は、イスラエルの指導者・牧者として立てられた祭司長たちが羊の群れを食い物にし、しっかり養っていなかったということがあります。また、羊の群れの番をしていなかったので、たくさんの羊が囲いの外に出て信仰と命を失ってしまったという神様の御心でないことが行われていたからです。

 

ですから、イエス様は10章の最初で「羊の囲い」のたとえを話され、その次にご自分のことを神様から遣わされた「良い羊飼い」であると宣言されるのです。10節の後半から11節を読みます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とあります。これはヨハネ3章16節をイエス様なりにリフレイズした言葉です。すなわち、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ということです。イエス様は18節までに5回、ご自分を「捨てる」と言われます。わたしたちが神様の憐れみによって救われ、永遠の命を得るために、良い羊飼いであるイエス様がその命を十字架上で捨ててくださった、わたしたちに与えてくださったのです。それほどまでに、わたしたちはイエス様と神様に愛されている存在、大切な存在なのです。

 

12節から13節では、イエス様は本物の良い羊飼いとお金で雇われた羊飼いの違いを語っておられます。「羊飼でなく、自分の羊を持たない雇い人は狼が来るのを見ると、羊を置き去りに逃げる。彼は雇い人で、羊にことを心にかけていないからである」と言われます。雇われた羊飼いは、生活のために仕事をなし、羊よりも自分の命のほうが大切なので、身の危険を感じるとすぐに逃げ出してしまいます。しかし、イエス様は、羊たちを自分の家族のように愛し、牧草地へ導いて養い、川のほとりに導くのです。野獣・サタンから羊たちを守るために命をかけて働いて、羊の面倒をよく見てくださいます。イエス様は良い羊飼なのです。

 

14節と15節で、イエス様は、「わたしは良い羊飼である。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と言われます。「知る」というのは、ただ漠然とした知識や認識としてではなくて、わたしたちを人格的に知っておられるということです。わたしたちの全てを、名前も、生い立ちも、環境も、性格も、心の中にあることもすべて知っておられるということです。しかも、その度合いは神と主イエスの親密な関係と同じと言うのです。それほどイエス様がわたしたちに対して強い関心と愛情を持って下さっているということです。

 

最後に16節を読みたいと思います。「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼に導かれ、一つの群れとなる」とあります。この「囲いに入っていない他の羊」とはユダヤ人以外の異邦人、つまりわたしたちのことです。イエス様はわたしたちを救うためにこの地上を歩まれて探し出してくださり、わたしたちを教会という一つの群れとしてくださるために、十字架への道を歩まれ、その十字架でご自分の命を与えて下さったのです。

 

大久保教会には、日本人以外に、スウェーデン人、韓国人、アメリカ人、中国・台湾人の方々が兄弟姉妹として加えられ、日本語で神様に礼拝をおささげし、神様と地域に仕えるインターナショナル教会を目指しています。民族以外にも、社会的階層の相違を超え、性別や年齢を超えてキリスト・イエスによって一つの教会とされることを祈り求めています。新宿という地域性、アクセスの良い立地を活かしたセンターチャーチになることを願い、その中でイエス様が救い主であることを証しする教会を目指しています。そのような教会に建て上げることが神の御心なのです。そのような教会になるために、私たちは集められています。そのために主イエス・キリストは十字架上でご自分の命を与えてくださったのです。感謝ですね。この愛と恵みに応答して生きる者と神様に、イエス様に変えていただきましょう。