ルカによる福音書23章38〜43節
イエス様がわたしたちの身代わりとなって十字架に架けられた箇所の後半部分に聴いてゆきますが、前回触れませんでした38節の部分を最初にお話ししたいと思います。38節には、十字架に磔にされた「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。」と記されています。
ヨハネによる福音書19章21節と22節を読みますと、次のように記されています。「ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『「ユダヤ人の王」』と書かず、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてください」と言った。しかしピラトは、『わたしが書いたものだ、書いたままにしておけ』と答えた。」とあります。
こういうやり取りがあった事を知ると面白いなぁと感じます。イエス様に罪を認めず、無罪放免にしたかった総督ピラトは祭司長などのユダヤ教指導者たちとユダヤ社会の権力者たちの執拗な迫りと彼らに煽られた群衆が暴徒のように迫ってきたので、自分の意思に反して、イエス様を十字架刑に処する判決を下しました。しかし、自分の意に反したことを強要されると、少しでも抵抗しようとする心理が働いてしまいます。わたしはそうです。皆さんの中にも、そういう人がおられるのではないでしょうか。
ですから、ピラトは「わたしが書いたものだ、書いたままにしておけ」と答えたのではないかと考えます。つまり、十字架に付けられた「これはユダヤ人の王」という罪状書きは、ユダヤ教指導者たちに対するピラトの抵抗であったとも考えられます。イエス様を嘲弄する罪状書きではなく、イエスを十字架に架けたすべてのユダヤ人に対するピラトの嘲りであったと考えられます。しかし、イエス様は、ユダヤ人の王として、メシアとしてお生まれになられたことは確かなことですから、「これはユダヤ人の王」と記されていることは真実であると捉えることが正しく、良いことだと思います。
さて、イエス様と一緒に二人の死刑囚が十字架に磔にされます。39節から43節は、磔にされ、耐え難い大きな苦しみに襲われている彼らの言葉と、彼らと同じく大きな痛みに苦しんでおられるイエス様の言葉が記されています。そのような耐え難き苦痛を想像しながら聴く必要がある箇所です。
39節に、「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」とあります。一人の犯罪人はイエス様を罵ります。罵声を浴びせるのです。男言葉でありますから「お前」と日本語では訳されていますが、イエス様のことを「お前」と言うだけでも、彼がイエス様のことを「メシア」などと微塵も思ってもいないことが伝わってきます。前回も触れましたが、イエス様をメシア・救い主と信じることなく、イエス様を見下す人たちは、「自分自身と我々を救ってみろ。」、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とイエス様を嘲ります。
マルコ福音書15章31節と32節では、「祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』」と言っています。イエス様を信じられない人は、自分の目で見られる「徴」を求めます。しかし、自分の目で見たら本当に信じるのか。そんなことはあまり期待できません。何故か。イエス様を殺したい人たちは、イエス様を信じるつもりなど微塵もないからです。
さて、イエス様を罵った死刑囚は、何をもって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言ったのでしょうか。「お前はメシアではないか」と言う根拠は、どこから来たのでしょうか。自分たちが架けられている十字架の下で叫んでいる人々から影響されて、そう言ったのでしょうか。苦痛と死の恐怖から言ったのでしょうか。
彼は、「自分自身と我々を救ってみろ」とイエス様に叫びますが、この人にとって何が「救い」なのでしょうか。そもそも、なぜ救いが必要な状態に陥ったのでしょうか。救いの必要性を感じない人は、「救われたい」と思いもしないでしょうから、「自分を救ってみよ」と言わないと思います。しかし、この人はイエス様と一緒に十字架刑に処せられて大きな苦しみと恐怖の中にいる。彼の命も、もうあと半日、長くもってもあと一日ぐらいです。もう絶望しかなかったと思います。
そういう中で、40節と41節を読みますと、「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」と言ったとあります。
この人は、最初に「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。」と言います。つまり、この人は、神という存在を信じ、その神を恐れていることが分かります。なぜ神を恐れるのか。神に対して負い目を感じること、大きな罪を犯したと認めているからです。彼は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」と言います。彼らは、ローマの法律に触れ、死罪に当たる大きな犯罪をそれぞれ犯したのでしょう。自分たちは自ら犯した罪の報いを受けているのだから仕方がないと言っています。
つまり、この人は神様を恐れ、自分の犯した罪を認め、悔い改めの心を持っていたと思われます。そうでないと、救いを求めないと思います。そしてイエス様のことを「しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言わないと思います。
この死刑囚は、イエス様のことを「お前」とか、「こいつ」と呼ばずに、「この方は」と呼んでいます。この言葉使いからも、十字架に磔にされ、もう命が長くない人、もうすぐ死を迎える人がイエス様を救い主と信じ、告白していることを知ることができます。
もう一つ、彼は「この方は何も悪いことをしていない。」と言っています。何をもって「何も悪いことをしていない」と彼は言い切れたのでしょうか。彼の確信は一体どこから来たのでしょうか。獄中で、誰かからイエス様のことを聞いていたのでしょうか。そうかもしれません。本当のところは分かりません。しかし、ここで大切なのは、この神を恐れ、自分の罪を認め、悔い改めるこの死刑囚の「イエス・キリストは何も罪がない」という言葉を神様からの言葉としてわたしたちが信じるということです。
旧約聖書のイザヤ書や新約聖書のパウロ書簡などでも、イエス様は傷のない贖いの犠牲・小羊として死を選んでくださることが預言され、選んで死んでくださったことが記されています。その御言葉を信じ、このイエス様の贖いの死によって自分の罪は神様に赦され、救いを得ること、神様のみ許・御国へ招かれ、永遠の命が約束されていることを信じる人に、平安が与えられるのです。
それでは、その「平安」とは具体的に何でありましょうか。
イエス様を救い主と信じるこの死刑囚は、42節で、「そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。』」とあります。「あなたの御国」と言っていますから、この人はイエス様のことを「王」して捉え、信じているということです。
しかしながら、人間が考える、あるいは求める民族的な「王」とか、政治的な次元の「王」ではなく、愛と赦しと希望を魂に与える「王」ということでしょう。その王が自分の国に帰還する際、十字架刑に磔にされている罪人であるけれども、そのような自分を思い出してくださいと嘆願します。激しい痛みの中で、肉体の死を迎えている中で、魂の救いを求めているのです。
そのような人に対して、十字架上で同じ苦しみを負っておられるイエス様は何と返答しているでしょうか。43節で、「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」とあります。「はっきり」は「真実を」という「アーメン」という言葉が使われています。ですから、「あなたに真実を伝える」ということです。その真実とは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」ということです。大切なことが二つあります。一つ目は、このイエス様の言葉は約束です。二つ目は、イエス様が王として帰還するのを待つ必要がない「今日」ということです。
ルカは、「今日」という言葉を福音書の中で多く用います。2章11節で、救い主の誕生が天使によって羊飼いたちに告げ知らされた時もそうです。4章21節で、預言者イザヤの言葉が自分によって今日実現したと宣言されました。5章26節では、イエス様が中風を患う人を癒した時、人々は大変驚き、神を賛美し始め、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言います。19章で徴税人のザアカイが悔い改めた時も、「今日、救いがこの家を訪れた」とイエス様は宣言されました。「今日」、神様の愛と赦しの中で平安に生きるようにすべての人が招かれています。たとえ十字架に磔になっている人も、絶望の崖っぷちに立たされている人も、いくら歳を取っていても、イエス様を救い主と信じるように招かれています。そこが偉大な神様と救い主イエス様の素晴らしい性質です。
十字架上のイエス様が言われる「楽園」とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。イザヤ書51章3節にこうあります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌が響く。」とあります。イエス様が十字架上で約束される「楽園」とは、「慰めがあるところ」、そして喜びと楽しみ、感謝の歌が響くところ」、それはわたしたちの心です。イエス様を救い主と信じる時に神様の憐れみに与り、豊かな愛が心に注がれ、慰められ、喜びと感謝で満たされると約束されています。それが「楽園」という意味であると信じることがイエス様の心を受け取ることではないかと思います。