御言葉はあなたを照らす灯

「御言葉はあなたを照らす灯」 二月第三主日礼拝 宣教 2025年2月16日

 詩編 119編105節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も恵みの中、皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。明後日から寒波が再来して、関東もずっと寒い日々が続く予報ですが、北海道から西日本までの日本海側は再び災害級の大雪になるという予報が出ています。能登半島の被災地に生きる人々など、日本海側で生活されている人々が守られるように祈ります。新潟上越にお住まいのKご夫妻はお変わりないようですが、覚えて祈りたいと思います。

 

さて、今朝の礼拝の前半部分は、夜勤前の娘が録音してくれた音源で賛美をささげました。そしてこのメッセージ後の応答賛美からは、夜勤を終えた娘が急いで教会に帰ってきて奏楽をしてくれるそうで、いま教会に向かっていると思います。わたしは、彼女にすべて録音した音源で良いと言ったのですが、「頑張って帰ってきて、奏楽をする」と言って、仕事に出かけてゆきました。その言葉を信じています。自分の娘ではありますが、彼女の意気込みに感心し、そのような強い思いを彼女に与えてくださる神様に感謝しています。

 

わたしが26年前に牧師に就任した時は、礼拝のために常時4名の奏楽者がおられましたので、ピアノとオルガンの二重奏に合わせて賛美をささげていました。しかし、その後、奏楽者が1名となる事もありましたので、14年前に音楽主事を招聘しました。現在、2人の奏楽者が毎週の賛美をリードしてくださっていますが、仕事が日曜出勤になったり、体調不良で練習時間の確保が難しくなるケースも増えてきました。これからも録音した音源で賛美をささげる機会も増えると思いますが、主の憐れみの中、主が備えたもう二人の奏楽者の献身的な働きに感謝を表し、祝福を祈り、同時に新しい奉仕者が与えられるように祈りましょう。

 

もう一つアピールがあります。3週間後の3月9日の主日礼拝は、「3.11を覚える礼拝」としてささげます。14年前の東日本大震災で被災した岩手県、宮城県、福島県にある3つの教会とその働きを覚えます。週報に献金報告欄がありますが、そこに「東北支援」という項目があります。これは3つの教会の活動を支援する目的の献金です。昨年の2月第3主日時点では10万円強が集まっていましたが、今年は3分の1にも達していません。相次ぐ物価上昇の中で、わたしたちの生活も大変な状態ではありますが、高齢化と急速な人口流出に歯止めが効かない地方の教会は、わたしたちよりもさらに大変な状況下に置かれています。

 

福島の教会の牧師夫妻は、昨年夏あたりに急にご病気になられて辞任され、後任の牧師がつい最近就任されました。宮城の教会の牧師は、心臓病を患っていると先日の会議でお聞きしました。岩手の教会はとても小さな群れです。ぜひ今日からお祈りに覚えていただき、寛容な気持ちを礼拝堂に入る前の本箱にある木箱に入れていただければ感謝です。3月9日までに集められた支援献金を3等分にしてお送りします。わたしたちの優しい気持ちが、東北にある諸教会に、「自分たちは忘れ去られていない、祈られている」という安心感を与え、大いに励ますことができることを覚えて祈っていただければ大変感謝です。

 

さて、今月は「御言葉」をキーワードに、神様からの語りかけをご一緒に聴いています。今朝は、詩編の中でも有名な第119編105節の、「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」という言葉を中心に神様からの優しい語りかけを聴いてゆきたいと願っています。皆さんの中には、この聖句が大好きという方もおられるかもしれません。

 

詩編は、150の詩が編纂されたものですが、その中で最も長いのがこの詩編119編で、176節あります。ヘブル語のアルファベット順になっており、8節ずつを1つの段落として22個の段落があります。しかし、中心的なテーマは「神の御言葉」ですが、多様なサブテーマが各段落にあります。今朝ご一緒に聴く105節から112節までの「ヌン」の段落のテーマは、「神の言葉はわたしを導く」というものです。

 

イスラエル民族として共に聞き従うという場合は、主語が「わたしたち」と複数形になりますが、この詩編119編は単数形の「わたし」になっています。つまり、民族・国家として聞き従うという以前に、民の一人ひとりが神様と真剣に向き合って、しっかり御言葉に聞き、そして責任をもって従うということが強調されています。わたしたちも、国家単位、教会単位、家族単位で御言葉に聞く必要性も確かにありますが、それよりもまず、わたしたち一人ひとりが日々御言葉に聴き、そして日々従ってゆくという信仰が神様から求められているのだと思います。もっとパーソナルなレベルで聴いてゆく必要があるということです。

 

詩編119編の詩人は107節で、神様に対して「わたしは甚だしく卑しめられています」と叫び、110節でも「主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています」と叫んでいます。これは、詩人が闇の只中に、苦悩の中に居たということを物語っています。神様を畏れ、神様に信頼している信仰者であっても、理不尽なこと、不条理な闇を体験するのです。

 

わたしたちも人生の中で深い闇を経験します。その闇とは、理不尽なまでに人から攻撃されたり、あり得ない扱いを受けたり、不当な圧力をかけられたり、人間関係で悩んだり、行く道を見失って不安になったり、大切なものを失って悼んだり、悲しんだり、今まで積み上げてきたものを一瞬で失ってしまったり、病気や怪我を突然襲ってきて恐怖の中に叩き込まれたり、孤独を味わったり、取り返しのつかない失敗をして落ち込んだりして、自分が何のために生きているのか分からなくなったり、どこに向かって生きているのか分からなくなる。そういう闇をわたしたちは生きてゆく中で幾度となく経験するわけです。

 

復興中の東北や熊本の被災地、復興が手付かずの状態のまま生活されている能登半島の被災地の方々、度重なる大雪で家の中に閉じ込められて不自由な生活を強いられている方々、戦争や紛争で住み慣れた土地を離れて彷徨っておられる方々、幼い子どもたちを抱えて逃げ惑っている方々や逃げ回れない高齢の方々が数えきれないほどおられます。

 

そのような闇の中に、わたしも、皆さんもおられると思います。そのようなわたしたちに対して、憐れみ豊かな神様は、御言葉をもって真の慰めと励ましと希望を与えてくださいます。約束が与えられています。その真実さと約束が要約されているのが、105節の「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」という詩人の告白の言葉です。

 

この言葉には、長期的な側面と短期的な側面があると思います。長期的な側面というのは、暗闇の中を通らされても、主なる神様が常に共にいて励ましと希望を与え続けてくださるという神様への信仰です。短期的な側面というのは、闇の中をいま通っていても、今この時も神様が共に居てくださり、慰めと平安を与えてくださるという神様への信頼が込められています。もう少し分かりやすくお話しする必要があるかと思います。

 

「あなたの御言葉は、わたしの道の光」と詩人は自身の信仰を言い表しています。「あなたの御言葉」とは、長期的な歩みの中で与えられる言葉です。「わたしの道」とは、人生を表しています。今は人生100年の時代と言われていますが、70年から100年の人生の中で、わたしたちは様々な闇を幾度となく通らされます。

 

しかし、闇の先に「光」が見えたならば、その光に向かって歩んでゆくと思います。光が希望になるからです。真っ暗闇の中で光を見つけたならば、迷わず光に向かって進むと思います。希望の光に背を向けて反対方向に向かう人、深い闇の中にさらに入っていこうとする人はいないと思います。

 

神様は、イエス・キリストという御言葉をこの闇の世の中に、わたしたちに派遣してくださいました。この御言葉がわたしたちの先頭を歩んでくださり、闇から光へと導き出してくださるのです。イエス・キリストという御言葉が神様のおられる御国の光を見させてくださり、希望を与え続け、光へと導いてくださるのです。ですから、たとえ苦難の中を通らされても、わたしたちは神様に信頼して、光に向かって前進することができます。イエス・キリストという御言葉が人生を歩む中で神様から与えられる励ましであり、生きる力なのです。ですから、イエス様の言葉に日々耳を傾けて聴いてゆくことが重要なのです。

 

詩人は、「あなたの御言葉は、わたしの歩みを照らす灯」と神様への信頼を言い表しています。灯はとても小さな光です。暗闇の中、5メートル、10メートル先まで見える光ではありません。「わたしの歩み」とは、1メートル以内の足元を指しています。明日や来週のことも見渡せない程のわずかな灯です。しかし、灯はわたしたちの足元、つまり「今日の歩み」を見させてくれる確かな光です。

 

人生というのは、神様が与えてくださる1日1日の積み重ねです。今日という日を神様から与えられている恵みの日として感謝し、主に信頼しながらイエス様と共に歩む日々を重ねてゆく、その積み重ねが神様のおられる御国に向かう道となり、恵みに満ちた人生になって行きます。

 

最後に、マタイ福音書6章の後半でおっしゃられたイエス様の「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」という言葉、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」という言葉が思い浮かびます。

 

自分の力ではどうすることもできないこと、明日のこと、人生のことは神様に一切お任せして、今日という日を存分に楽しみましょう。一旦過ぎれば、もう戻ってこない貴重な時間です。神様の愛に守られ、生かされている日を喜び、感謝しつつ大切に歩みましょう。信仰をもって御言葉に聴き、御言葉よって光に向かって、永久に向かって歩んでまいりましょう。