ルカによる福音書23章44節〜49節
今回は、イエス・キリストが十字架上で死を迎えられる箇所から主の語りかけを聴きます。イエス様の死は、わたしたちの身代わりとして、わたしたちの罪の代価を支払うための贖いの死です。わたしたちを罪の支配から解放し、罪から生じる痛みや悲しみや不安や恐れをわたしたちの心から取り去るために、そしてその心に神様の愛を満たすために、イエス様は十字架に架かって死んでくださいました。死を選び取ってくださいました。
イエス様は、神であり、人であります。イエス様が神でなければ、わたしたちを「救う」ことはできません。人でなければ、わたしたちの「身代わり」となることはできません。つまり、人でなければ、わたしたちの罪を贖うために「死ぬ」ことはできません。イエス様は神の独り子、神であられますから、群衆の「十字架から降りてみよ」という挑発に乗って十字架から降りることもできましたが、決して降りられませんでした。何故でしょうか。それは、わたしたちの罪を一身に負って贖いの死を迎えてくださるためです。
イエス様は、わたしたちの罪の代価を支払い、わたしたちを罪から洗い清め、わたしたちを神様の愛で永遠に生かすために、また十字架上で神様の愛を証明し、その愛をわたしたちに分け与えるために、苦しみ悶えつつも十字架に留まってくださいました。イエス様を十字架に磔にしていたのは、他でもないわたしたちの罪です。イエス様を十字架に留めたのは、数本の太い釘ではなく、わたしたちを愛する主ご自身の愛なのです。イエス様の十字架の死は、わたしのため、あなたのためであったこと、わたしたちはそれ程までに神様に、イエス様に愛されている存在であることを心の留め、深く感謝したいと願います。
イエス様は朝9時ごろに二人の死刑囚と共に十字架に磔にされましたが、44節と45節前半を読みますと、昼の12時頃から起こったことが記されています。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」とあります。普通12時から15時は日中で最も明るい時間帯であるのに、全地は暗くなったとあります。どうしてでしょうか。
ある人々は、皆既日食でなかったかと自然現象で全地が暗くなったと言うのですが、3時間も続く皆既日食など聞いたことなどありません。世界で今まで観測された皆既日食の最長時間は、7分31秒だそうですから、3時間も全地が暗くなることは自然現象としては考えられません。しかし、神様にできないことは何一つありませんので、絶対にあり得ないとは言い切れません。大切なことは、神様が全地を暗くさせたと理解することです。
ここでは、昼の12時から15時まで、全地が暗くなったことには「意味」があると考えるほうが最善だと思います。暗くなった意味とは、1)神の子イエス・キリストが死を迎えると言うこと。2)まことの世の光イエス様の命が消えてしまうこと、3)消えてしまう理由はイエス様が罪を負って死んでくださることイコール神様から切り離されてしまうことですから、4)神様とイエス様の双方に大きな痛み、悲しみがあったという事を表していると捉えることが重要と思います。
全地が暗くなったのは、愛する子が十字架で苦しみ、痛んでいる姿を見ていられない神様の深い悲しみを表し、神様ご自身も痛まれたということを全地のすべて人に、わたしたちに示すためであったと考えられます。世の光がその源である神様から切り離されるという出来事は、太陽が光を失うこと以上に衝撃的な出来事であったと教えているようです。
さて、45節の後半に「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」とあります。「垂れ幕」とは、神殿の中の「聖所」と選ばれし祭司しか入れない聖所の先にある「至聖所」を隔てていた垂れ幕のことです。もっと簡単に言いますと、神様とわたしたちを隔てる幕です。神様とわたしたちを隔てるもの、それはわたしたちの「罪」です。罪ある者が聖なる神に近づくことはできません。強引に近づくものなら、人は打たれて死んでしまいます。ですから、聖なる神と罪ある人の間に隔てを持つために垂れ幕が存在したのです。
しかし、その神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたのです。これは何を意味しているのでしょうか。それは主イエス・キリストが父なる神様から引き離され、贖いの供え物とされたことによって、つまりイエス様の命と引き換えに、神様とわたしたち人間との関係性・交わりが回復したということを示しています。イエス様が神様から引き裂かれることによって、わたしたちが信仰によって神様にアクセスすることができるようになり、神様に再びつながることができるようになったという良き知らせが示されています。
さて、午後3時ごろ、全地が光を失っていた時、イエス様は大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれて、息を引き取られたと46節にあります。このイエス様の叫びは、6時間にわたる十字架上での苦痛のあまり気がおかしくなったために発せられた叫びではなく、父なる神様から委託されたこの地上での任務・使命をすべて完璧に全うしましたという感謝の叫びだと思います。「お父さん、わたしはあなたから託された使命をすべて成し遂げました。今、あなたの御手にわたしの命をお委ねします。今後のことはすべてあなたに委ねます」という叫びであったと思います。
主イエス様の最後の言葉は、耐え難き苦痛を根源とする叫びではなく、父なる神様の御心を全うしたという達成感、安心感、そしてすべてを委ねる叫びでした。イエス様は、悔いを残すことは何一つなく、平安のままに、神様に信頼しつつ息を引き取られたのです。
わたしたちは、どうでしょうか。地上での命が終わり、死を迎える時、わたしたちの口からどのような言葉が出てくることでしょうか。これまでの恨み辛みでしょうか。嘆きでしょうか。大切なものを残して行かなければならない悲しみや悔しさを表す言葉でしょうか。恐れや不安でしょうか。「神様、わたしにはこの地上でなすべきことがまだたくさんありますから、どうぞ命を取らないでください」という叫びでしょうか。
そうではなく、「主よ、すべての恵みに感謝します。わたしのすべてをお委ねします」と今までの人生を神様に感謝し、地上に残してゆくすべてを神様にお委ねしますと発することができれば、なんと幸いなこの地上での人生の閉じ方ではないでしょうか。そのような生き方ができるように、イエス様の言葉に聞き従う必要があり、その聞き従う日々の積み重ねが幸いな人生をなるのではないでしょうか。
この地上での残された人生の中でわたしたち一人一人が果たすべき使命は、神様と主イエス様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、仕え合うことです。そのために、「神様、わたしはあなたを信じ、わたしのすべてをお委ね、キリストの名によって祈ります」と祈りつつ歩む時、その日々がいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する人生、主イエス様の十字架の死と復活を証しする人生としてくださるのです。憐れみ豊かな神様がすべてを益にしてくださり、その先にある神の国へと招いてくださると信じます。
続く47節から、イエス様の逮捕から不当な裁判、そして十字架刑の最初から最後までを見てきた人々の心のリアクションが記されています。47節には、「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」とあります。
百人隊長は、ローマの兵卒を統率する隊長、イエス様を十字架刑に処する指揮をとった人です。自分の部下が十字架上のイエス様に酸いぶどう酒を突きつけながら、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱することを黙認していた人です。しかし、十字架に付けられたイエス様を間近で6時間も見ていて、イエス様の口から出る一つ一つの言葉を聞いて、この百人隊長は、イエス様が十字架上で息を引き取られた時、神を賛美する人へと変えられてゆきました。
わたしたちには人の心を変えること力はありませんが、イエス様の十字架上に示された神様の愛、憐れみが、ご聖霊の励ましの中で、その人の心をイエス様に近づけ、信じる心へと変えてくださるのです。そのことを信じて日々生きる者、神様の愛とイエス様から受ける救いを証しする者とされてゆきたいと願います。
48節に「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」とあります。胸を打つという行為は、自分の間違いを認め、自分の罪深さを悔いる行為です。面白半分に見物に来ていた群衆・野次馬も、十字架に付けられたイエス様を6時間見つめる中で、その声と言葉、叫びを聞く中で、自分たちの思いが神様とイエス様の思いに至らなかったこと、イエス様を嘲笑った間違いに気づき、悔い改めます。
イエス様の十字架がわたしたち一人ひとりを悔い改めへと導くのです。ですから、イエス様をいつも見上げることが大切です。また、イエス様の十字架を周囲の人々に指し示すことがクリスチャンとキリスト教会の使命です。
49節に「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」とあります。彼らは臆病者で、保身のために遠くに立っていたわけではなく、死なれたイエス様のために自分は何ができるだろうかと一生懸命に知恵を働かせ、神様の御心と仕える勇気を求めていたと信じます。
わたしたちは、神様の愛、イエス様からいただく救いの恵みに、どのように応答してゆくべきでしょうか。それぞれが十字架上のイエス様を見上げ、心砕かれ、神様から与えられている愛と憐れみを感謝し、その恵みを分かち合うことから始めましょう。