ルカ(130) エマオでパンを裂かれるイエス

ルカによる福音書24章28節〜35節

前回は、エルサレムでのイエス様の十字架の死に落胆し、女性の弟子たちに天使たちが「イエスは生きておられる」とイエス様の復活を宣告されたと聞いても、イエス様の復活を信じることができずに地元のエマオに帰ろうとしていた二人の弟子たちに甦られたイエス様が現れてくださったけれども、彼らの心の目が遮られていたためにイエス様を認めることができなかったという部分を聴きました。

 

弟子たちの目が遮られてイエス様を認めることができなかった理由を可能な限りお話ししましたが、言葉が足りなかったと思います。分かち合いの中で、「イエス様を見て分からなくても、イエス様の声を聞いてなぜ気付かなかったのでしょうか」というご質問をお聞きしてハッとさせられましたが、その質問に対して可能性的なことはお話しできても、確信を持って答えることが出来ませんでした。

 

ただ、その理由を今回見つけることができなくても、神様がいつかきっと答えを与えてくださると信じて、その時を待ちたいと思います。その具体的な答えはどこから来るのかという問いに関しては、神の御言葉である聖書からしかありません。人間の限られた知恵からでは答えようもないことを神様は聖書を通して答えてくださる。それが「聖書信仰」と呼ばれる信仰であり、神様の御言葉に信仰を根ざして行かなければ、イエス様を救い主として見ることも、御言葉を正確に聞くことも、信じて従うことも出来ません。

 

信仰の目が遮られてイエス様を認めることが出来なかった二人の弟子たちに対して、イエス様は「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」と27節にあります。イエス様は旧約聖書を用いて、聖書の中で神様が約束されている救い主・メシアについて明確に説明をし、イエス様が「罪人の手に必ず渡され、十字架につけられて死に、しかし神様の御心によって三日目に復活することになっている」ことを説明されました。イエス様に関する素朴な質問や深い疑問の答えは、すべて聖書の中にありますので、聖書を日々読む必要がわたしたちにあるのです。

 

さて、イエス様が聖書を通して話してくれた時の事を弟子たちは、32節で次のように言っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合っています。意気消沈している弟子たちの心を燃やしたのは、他でもないイエス様の言葉であり、聖書の御言葉であったのです。同様に、日々の忙しさ、人間関係の大変さなどの中で悩み苦しむわたしたちの心を慰め、励まし、前を向かせるように勇気づけるのはイエス様の言葉であり、聖書であるのです。

 

「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」というのは、イエス様の受難と十字架の死、そして甦りのすべては、憐れみ深い神様が旧約聖書の時代からずっとご計画されてきた救いの御業だということを教えています。その救いのご計画の中に、わたしたちの名前があること、その計画の只中に生かされていることを信じ、喜び、感謝したいと思います。と同時に、その喜びを周りの人たちに分かち合ってゆくことが神様とイエス様の願いであることは間違いありません。

 

28節には、まだ目が遮られている弟子たちとイエス様がエマオに到着したとありますが、ここに面白いことが記されています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。」とあります。二人の弟子たちの目を開くためにイエス様は彼らと歩まれたはずなのに、「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」というのは、どういうことでしょうか。聖書からその答えを探ってみたいと思います。

 

まず、出エジプト記33章19節と22節、34章5〜6節を読むと少し分かるかと思います。33章19節には、「主は言われた。『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ』」とあります。また22節には、「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。」とあります。

 

34章5節と6節には、「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満つ』」とあります。

 

この二つに共通するのは、人々の前を神様とその栄光が通り過ぎる時、あるいは通り過ぎようとしていく中で、神様の憐れみが人々に与えられるという点です。神様の愛とその力が力強く宣言されているという点です。

 

マルコ福音書6章45節から52節にも同じような出来事が記されています。すなわち、夜に弟子たちだけでガリラヤ湖を船で渡っている時、逆風のために弟子たちは苦闘します。その様子を陸から見たイエス様は、湖の上を歩いて弟子たちの船に近づくのですが、なぜかイエス様はそばを通り過ぎようとされたのです。

 

弟子たちの心は荒波で悩まされていたので、自分たちの方へ湖を歩いてくるイエス様を幽霊だと思って大声で叫びます。しかし、そばを通り過ぎようとされたイエス様は弟子たちに対して、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ、イエス様が船に乗り込むと風は静まったというのです。荒波が静けさを取り戻すかのように、弟子たちは、大きな不安と恐怖から解放され、心が平安で満たされるのです。

 

本題に戻りますが、神様とイエス様がわたしたちの前を通り過ぎようとされる時、それは神様とイエス様は憐れみを、励ましの言葉を備えてくださっていることを聖書から読み取ることができます。しかし、もしそうであるならば、そんな回りくどい事をしないで、すぐに栄光をあらわし、すぐに救いの御手を差し伸べてくれれば良いではないかとわたしたちは思うのですが、神様とイエス様には他の考えがあるのです。すなわち、わたしたちが神様に憐れみと助けを叫び求めることを待っておられるということです。それをわたしたちから引き出すために通り過ぎようとされる、一種のフェイントがあるのだと思います。

 

それが分かるのが今回の24章29節です。「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」とあります。彼らはイエス様を「無理に引き止め」ました。もっとイエス様の言葉を聴きたかったのです。その理由は、イエス様がお話しくださるとき、彼らの心は燃えたからです。

 

つまり、イエス様の言葉を求めることがわたしたちにも重要だということです。神様の愛とイエス様の言葉は確かです。しかし、神様とイエス様は強要しません。ゴリ押しも、押し売りもしません。わたしたちが神様の愛とイエス様の救いを求めることを忍耐してひたすら待たれるのです。もしわたしたちが切に求めなければ、イエス様は祝福を持ったまま、わたしたちの前を通り過ぎてしまうのです。そのようなことがないように、イエス様が近くにいて、救いの御手を差し伸べられている間に復活のイエス様と出逢うことを祈り求めましょう。

 

さて、30節から31節にとても興味深いことがいくつも記されています。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあります。ここに興味深いことが3つ記されています。

 

1)まず、イエス様はその家の家長でもないのに、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。夕食は家族にとって大切な時間です。宗教的な意味合いもあります。それなのに、その家の長はなぜ家長の役目をイエス様に託したのでしょうか。それはイエス様の言葉に平安を与える力、彼らの心を燃やす力があったからでしょう。同様に、家庭の大事なことをイエス様にすべてお委ねしてゆく時、イエス様の言葉を大切にする時、その家庭に主の愛が満たされ、一致と平和と幸福が与えられるのです。

 

2)イエス様がパンを裂かれた時、弟子たちの遮られていた目は開かれ、パンを分かち合ってくれている方がイエス様だと初めて気付きます。彼らの心の目が開かれた時、イエス様は御言葉通りに甦られたということ、イエス様は生きておられるということを、頭で理解したのではなく、心で確信したのです。

 

3)心で信じることができたら、見えなくても信じ続けることができます。ですから、彼らがイエスだと分かった時、イエス様の姿は見えなくなったのです。肉眼で見えなくても、心の目でイエス様を見て、信じることができるようになったからです。

 

一緒にその食卓の場にいた他の家族たちは驚いたでしょう。一時的に恐れを抱き、混乱したでしょう。しかし、心の目が開かれたこの二人の弟子たちがしっかり説明することができたと思います。

 

さて、33節以降にこう記されています。「そして、(彼らは)時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」とあります。イエス様の死に心が落胆し、心がイエス様から離れ、エルサレムから離れそうになっていた彼らの心が復活したイエス様によって励まされて、すぐにエルサレムへと戻されてゆくのです。

 

イエス様から離れると顔と心は暗さを増してゆきます。しかし、復活されたイエス様に出逢うと心は大きな喜びと平安で満たされ、その事を人々に伝えたくなるのです。復活の主イエス様を信じ、イエス様との時間を切に求めましょう。そうすると、心はイエス様の愛によって満たされるはずです。