「神による救いの約束を果たすための道」 三月第四主日礼拝 宣教 2025年3月23日
イザヤ書 65章17〜25節 牧師 河野信一郎
おはようございます。ゲストの皆さん、ようこそ大久保教会の礼拝へお越しくださいました。教会の皆さん、お帰りなさい。オンラインで礼拝に出席くださっている方々も感謝です。今朝も皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。
昨日はとても暖かな1日でしたので、少しだけ教会の庭の手入れをしました。教会の植物を観察しましたら、アジサイ、ライラック、ムクゲなどにたくさんの新芽が出てきているのが見えて心が高鳴りました。わたしの一番のお気に入りの椿も美しいピンク色の花々を咲かせていますので、お帰りの際にご覧いただけたらと思います。このまま順調に暖かくなってゆき、桜が町中に咲き誇り、わたしたちの目と心を楽しませてくれることを期待しています。
さて、今年の受難節が3月5日から始まりましたので、今月はイエス様はどのような使命を神様から受けて、またどのような目的のために十字架の道を歩まれたのかを順不同ではありますが、新約聖書と旧約聖書から聴いています。初めて聴かれる方々のために手短にお話ししますと、最初にヨハネによる福音書1章から、イエス様は神様への贖いの供え物、小羊としてその命をささげてくださるために十字架への道を歩んでくださったことを聴きました。
次にコロサイの信徒への手紙1章から、イエス様は神様とわたしたち罪にある者たちとの間に立って、和解を与えるために、十字架への道を歩まれ、十字架上でその命を与えてくださったことを聴きました。先週は、旧約聖書にある詩編51編を通して、イエス様はわたしたちの心に清い心を創造するために十字架への道を進み行かれたことを聴きました。
今朝は、その「創造」という言葉のつながりから、父なる神がユダヤ人とわたしたち異邦人に救いを与え、祝福すると約束されたことを成就するために、御子イエス・キリストは十字架への道を歩まれたことをイザヤ書65章から聴いてゆきたいと願っています。
しかし、その前にイザヤ書の背景を短くお話ししたいと思います。イザヤ書1章2節(p1061)に、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子ら(イスラエル)を育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。」とあります。また、1章4節を読みますと、「災いだ、罪を犯す国、咎の重い民。悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。」とあります。
このイザヤ書は、神様に背き、神様を侮り、神様を捨てた者たちに対して、それでも神様は憐れみをもって救いを与えると約束され、救いの手を差し伸べられ、救い主・メシアをこの地上に派遣されるという約束がされている預言書です。そして、このイザヤ書で約束されている神様の約束は、イエス・キリストによってすべて果たされます。
このイザヤ書には、イスラエルの民のほとんどが神に背く者たちで、そのような民を神様は確かに裁かれると記されています。しかし、そのような民の中にも神様に対して忠実に生きる人々が確かにいて、その人々の命を神様は長らえさせ、祝福の中に招き入れるという約束がなされています。また、イスラエルの民は心を頑なにし、悔い改めて神様に立ち返らないので、神様は異邦人たちを救いの中に招かれるという約束もなされています。
その救いの約束を果たすために、神様はイエス・キリストをこの地上に派遣され、ユダヤ人、異邦人かかわらず、わたしたちの罪の代価を支払うためにイエス様が十字架上でその命を与えてくださった、そのイエス様を死の中から引き上げ、甦らせて救いの業を完成されたのです。このような救いの業がなぜ必要であったかを考える必要がありますが、答えは聖書にあります。
新約聖書のヘブライ人への手紙12章14節(p417)にこうあります。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主なる神を見ることはできません」とあります。「聖なる生活を抜きにして、だれも主なる神を見ることはできない」。罪にまみれた状態、罪に汚れたままでは、わたしたちは聖なる神様の御前に立つことはできないというのです。神の小羊、イエス・キリストが十字架上で流された血潮によってわたしたちの罪が洗い清められ、聖なる者とされなければ、わたしたちは神様の御前に立つことはできない。
ですから、わたしたちを神様の御前に聖なる者とするために、イエス様は自ら進んで十字架への道を歩まれ、十字架上でその命をわたしたちに与えてくださったのです。わたしたちには自分を清める力はありません。イエス様の血潮のみがわたしたちを罪から清め、わたしたちを神様の御前に聖なる者としてくださるのです。
話しをイザヤ書に戻します。65章を読んでゆきますと、新改訳聖書や口語訳聖書では柔らかい表現で「あなたがた」と訳されていますが、新共同訳聖書では神様に背き続ける人々を神様は「お前たち」と呼ばれ、神様に忠実に従う者たちを「わたしの僕ら」と呼ばれていることに気付かされます。神様に背き続けることがいかに深刻な罪であるかを認識させるために乱暴な言葉で訳したのだと思いますが、神様に背き続けて「お前たち」と呼ばれるのと、神様に従って神様に「わたしの僕ら」と呼ばれるのと、皆さんはどちらが良いでしょうか。
参考のために12節から14節を読んでおきたいと思います。「12わたしはお前たちを剣に渡す。お前たちは皆、倒され屠られる。呼んでも答えず、語りかけても聞かず わたしの目に悪とされることを行い わたしの喜ばないことを選んだからである。13それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしの僕らは糧を得るが お前たちは飢える。見よ、わたしの僕らは飲むことができるが お前たちは渇く。14見よ、わたしの僕らは喜び祝うが お前たちは恥を受ける。見よ、わたしの僕らは心の喜びに声をあげるが お前たちは心の痛みに叫びをあげ 魂を砕かれて泣き叫ぶ。」とあります。
神様が呼ばれる「お前たち」と「わたしの僕ら」と、わたしたちはどちらの生き方を選ぶでしょうか。皆さんはどうされますか。自分の意志で選んで良いのです。意志決定はわたしたちの自由なのです。しかしそれでも、愛と憐れみの神様は救いの御手を差し伸べてくださり、「わたしの祝福の中に、愛のうちに生きなさい」と招いてくださっているのです。
わたしたちが各自この決断をする前に覚えておきたいことがあります。神様から差し出された救いの御手、つまりイエス・キリストの手を払いのけて、自分の好きなように生きることもできます。しかし、それは神様の目から見れば、「お前たち」の生き方です。これまでの過去をずっと引きずったまま、強いて言うならば、古い自分のまま重荷を負い続け、今後も自分ひとりでもがき苦しみながら、戦い続けながら生きるということです。
確かにそういう生き方もあるでしょう。しかし、そのような痛みや苦しみや闇の中に生かすために神様はあなたを創造し、あなたに命を与え、これまで生かしてこられたのではありません。あなたは神様の愛のうちに生きるために創造され、神様の愛と憐れみの中に生かすために、神様はイエス・キリストをこの地上に派遣されたのです。そして、わたしたちがどれだけ神様に愛されている存在であるかを示すために、イエス様は十字架への道を歩まれ、十字架上でその命を与え、その血潮によってわたしたちの罪を洗い清めてくださったのです。
65章17節に、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。」との約束が記されています。愛の神様がイエス・キリストを通して新しい天と新しい地を創造されるのです。すべてが新しくなるのです。初めからのこと、すなわち古いもの、過去の苦しみから、罪と死の恐れから解放されて神様の祝福の中で生かされるという宣言でもあります。
18節で神様は、「見よ、わたしはエルサレムを、すなわちイエス・キリストを救い主と信じる者たちを喜び躍り、日々を喜び楽しむものとして創造する。」と言っておられます。19節では、「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」との約束があり、続く20節では、永遠の命に生かされることが祝福として約束されています。
21節から23節には、実際の生活の面でも祝福されるとの約束がなされています。23節の最後に、イエス・キリストを救い主と信じて従う者だけでなく、「その子孫も主に祝福された者の一族となる。」という約束があります。わたしたちを祝福すると神様が約束されたことを果たすために、わたしたちを神様と和解させるために、わたしたちの罪を洗い清めて神様の御前に立たせるために、イエス様は十字架への道を歩んでくださいました。
そして、25節にあるように、「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない」という被造物同士の平和、神様が与えてくださる真の平和への道を示し、その平和の中に生きなさいと招いてくださるのです。神様はわたしたちを祝福すると約束され、その約束を守られます。わたしたちに必要なのは、その祝福をまず受け取ること、そして次に神様と約束を結ぶことです。神様の愛に応えて、どのような約束が神様にできるでしょうか。
まず神様と一対一で向き合い、神様からの語りかけを聖書から受け、それからイエス様の名によって祈って神様に求めてみましょう。「神様、あなたの愛を求めます。イエス様を救い主と信じて従えるように、わたしを日々助け導いてください」と祈ってみましょう。