ルカ(131) 弟子たちに現れる復活の主イエス

ルカによる福音書24章36節〜53節

2022年4月から131回に亘って聴いてきましたルカ福音書の学びも、今回が最終回となりました。主に感謝いたします。

今回は甦られたイエス様がエルサレムで弟子たちにその姿を現す箇所(36~49節)と弟子たちの目の前で天に上げられる箇所(50~53節)に聴きます。二つのテーマを一度に扱うのは少し乱暴かなぁと思いもしましたが、二つの出来事には関連性がありますので、一緒に聴いてみようと思いました。

 

まず復活されたイエス様がエルサレムで弟子たちにその姿を現す箇所ですが、ここで重要なのは、何故イエス様は弟子たちに復活の姿を現されたのかという理由・目的です。そこには二つの目的があると考えられます。一つ目の目的は、イエス様の十字架の死によって途切れていたイエス様と弟子たちとの関係性を元通りにするためです。二つ目の目的は、イエス・キリストの十字架の贖いの死と三日目の甦りという福音を全世界に出て行って宣べ伝える使命をイエス様が弟子たちに与えるためです。

 

最初の目的は、イエス様の逮捕から十字架の死に至るまでのイエス様の受難によって中断してしまったイエス様と弟子たちとの関係性を元通りにする、再びつなげることが最初の目的です。36節の前半に「(弟子たちが)こういうことを話していると」とありますが、これは33節後半から35節に記されている事です。すなわち、「十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」とあります。

 

ここで注目すべきは、34節の「本当に主は復活して、シモンに現れた」という部分です。イエス様が群衆に捕えられた時、弟子たちはイエス様を見捨てて一目散に逃げ出しました。確かのその前にイスカリオテのユダの裏切りがありますが、イエス様を見捨てて逃げてしまったことから弟子全体とイエス様との関係性は破れてゆきました。しかし、究極の破れの最たる象徴は、シモン・ペトロがイエス様を知らないと3度否認したことです。

 

ここに「主は復活して、シモンに現れた」とありますが、ここで重要なのは、イエス様のほうからシモン・ペトロに歩み寄られて、シモンとの関係性を修復し、元通りにしたという事です。エルサレムから離れて地元のエマオへ戻る道を進んでいた弟子たちに歩み寄られて話しかけられたのもイエス様のほうからでした。そしてパンを裂くことで弟子たちの遮られていた心の目が開かれました。復活したイエス様が弟子たちの前に現れたのは、ほころびのあった弟子たちとの関係性を元通りにし、励ますための愛の表れでした。

 

36節の後半に「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」とあります。イエス様が「彼らの真ん中に立たれた」のは、過去3年間、イエス様を中心に歩んできた共同体を弟子たちに再認識させるためです。この共同体はイエス様の十字架の死によって一旦中断されたかのように見えましたが、復活の主イエス・キリストによってその関係性は継続しているという幸いを弟子たちに示すためでした。

 

「あなたがたに平和があるように」とイエス様が弟子たちに言われたのは、イエス様を見捨てて逃げ出してしまった負い目があったため弟子たちの心に平安がなかったからでしょう。イエス様と自分たちの関係性は壊れて「平和」ではなくなったと強く感じていたと思われます。しかし、ここでもイエス様のほうから歩み寄り、「大丈夫だよ。心配することはない。平和を受け取りなさい」と招く平和宣言と捉えることが御心だと思います。

 

しかしながら、弟子たちの心はまだ平安でありませんから、37節にあるように、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のです。ですので、イエス様は38節から40節で「『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』と言って、イエスは手と足をお見せになった。」のです。ここでの中心は、イエス様の「まさしくわたしだ」という言葉です。ガリラヤからずっと一緒に歩み続けたイエス様と、十字架に架けられたイエス様と、復活したイエス様は、同一人物だという事をイエス様はここで弟子たちに言ってるのです。

 

しかし、弟子たちはそれでも信じられません。41節から43節に「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているのでイエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」とあります。これは、イエス様が肉体をもって甦られたという証明というだけでなく、弟子たちとずっと一緒に飲食を共にして歩み、宿泊先で出された食べ物を一緒に食したこと、つまりイエス様と弟子たちが一つである事を示すために、また共同体であることを思い出させるためにこうされたようです。

 

44節に、イエス様が「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」とありますが、イエス様が十字架に架かって死なれるもっと以前からご自分が苦しみを受けて死に、三日目に死者の中から復活する事をお話ししていました。

 

エマオの途上でも弟子たちにモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、イエス様について書かれていることを説明しました。イエス様の受難、十字架の死、そして復活は旧約の時代から神様が計画されていた救いの御業であり、弟子たちと共に宣教をされたイエス様と十字架上で死なれたイエス様と復活されたイエス様は同一人物である事を示します。

 

そのことを弟子たちに分からせるためにイエス様は「彼らの心の目を開かれた」と45節にあります。わたしたちの心の目を開き、聖書の御言葉を教えてくださるのは、復活されたイエス・キリストなのです。

 

復活されたイエス様が弟子たちに現れたもう一つの理由・目的は、イエス様の死によって大混乱に陥っていた弟子たちが完全に見失っていた「弟子として召された使命」を、彼らの目を開いて再確認させることにありました。

 

46節で、「(聖書に)次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」とイエス様は弟子たちに言われます。これまでの弟子たちの宣教の役目は、イエス様から授かった権能をもって病にある人をいやし、悪霊を追い出し、神の国は近づいたと力強く宣言する事でしたが、イエス様の贖いの死と死に勝利した復活の後は、イエス・キリストの十字架の死(の意味)と死者の中から復活された(意味)を人々に宣べ伝え、47節にあるように、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことが弟子たちの使命になります。

 

「その名によって」とは、キリスト・イエスの御名によってという意味です。弟子たちは、病をいやす時も、人々にバプテスマを授ける時も、キリストの言葉を教える時も、自分の力によってではなく、イエス様の力と権威により頼んで成してゆく、弟子たちを通してイエス様が働かれるという意味で捉えることが良いと考えます。この働きは、「あらゆる国の人々」への宣教であるとイエス様は言われます。ユダヤ人だけでなく、異邦人たちにも福音を宣べ伝えることが使命として弟子たちに与えられています。

 

イエス様の死と復活によって、御国への扉が開かれ、すべての人は御国に招かれます。しかし、罪にある状態では神の国へ入ることはできません。何が必要でしょうか。それはわたしたちが自分の罪深さ・弱さを認め、神様に謝罪して、神様に立ち帰ること、それが「罪の赦しを得させる悔い改め」です。わたしたちの罪を赦す権威があるのは神様のみです。わたしたちに出来るのは、これまで自分中心に生きていた事を認め、神様に謝罪し、これからは神様に向かって、神様を中心とした生き方をしてゆくことが神の国へ招かれる道です。

 

弟子たちは、その宣教の業をエルサレムから始め、イエス様の十字架と復活の証人として生きなさいと47節と48節で招き、福音を伝える働きに召されてゆきます。これは弟子としての再派遣の言葉です。この働きを助けるためにイエス様は弟子たちに、49節で、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と約束と励ましを与えます。神様から送られ、弟子たちを覆うものとは「聖霊」です。神の霊を神様からの力とルカは言っていますが、聖霊に覆われ、満たされることによって、この働きは全うすることができるということです。イエス様を救い主と信じて、悔い改めてゆく時に、聖霊がわたしたちに臨み、新しい生きる力、主と隣人に仕える力を与えます。

 

50節から53節は、イエス様が弟子たちと別れ、彼らの目前で天に上げられる「昇天」と呼ばれる所です。50節から読んでゆきますと、イエス様は弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行ったとあります。このベタニアはオリーブ山のふもとにあり、イエス様がエルサレムへ登られ、受難が始まる直前に弟子たちと過ごした場所です。エルサレムはイエス様が十字架に架けられて死なれた場所ですから、天に上げられてゆく場所としてベタニアが選ばれたのです。

 

イエス様は、天に上げられる前、イエス様は弟子たちを祝福するために祈りをささげられます。地上に残してゆく弟子たちが神様の憐れみと聖霊の助けによってイエス様が託した福音宣教という使命を忠実に行えるように、神様の祝福を祈ります。弟子たちを「祝福しながら、イエス様は弟子たちを離れ、天に上げられた」と51節にあります。イエス様の弟子たちへの祝福はそれからずっと続いているのです。

 

52節と53節に、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」と記されています。これまでも、弟子たちはイエス様の前で地にひれ伏すこと(5:8、8:41と47、17:16)はありましたが、礼拝するというギリシャ語「プロスキュネイン」が使われているのは、ここが初めてです。イエス様が天に上げられる時、弟子たちはイエス様が神の子であることを完全に認識し、真心からイエス様に礼拝をささげたのです。そのような彼らは大喜びでエルサレムに帰り、神殿の境内で絶えず神様とイエス様を賛美し続けます。

 

ルカ福音書1章は神殿でザカリアが神様の御前で礼拝をささげることから始まり、イエス・キリストという救い主が与えられるという約束の後、マリアの讃歌が記されています。福音書は大きな喜びで始まります。そして福音書の最後の24章は、弟子たちが神殿で主に礼拝と賛美をささげ、大きな喜びで満たされるということで終わっています。

 

そこには大きな意味があると思います。わたしたちは、礼拝を通して、神様の愛と憐れみ、罪の赦しと救いを経験し、大きな喜びで満たされ、平安を得られるのです。ですから、教会の家族と一緒にささげる主日の礼拝とそれぞれが日々の生活の中でささげる礼拝は大切なのです。神様に賛美と祈りと礼拝をささげる人が、大きな喜びに満たされ、平安が与えられるのです。

 

わたしたちは、イエス・キリストが再びこの地上に来られる日まで、教会で礼拝と賛美と祈りをささげ続けましょう。聖霊に満たされ続けましょう。大いなる喜びと感謝に満たされ続けましょう。そして、それぞれが生きる場所で神様の愛とイエス様の犠牲・愛を伝え続けましょう。そのためにわたしたちはイエス様によって救われ、新しい命に生かされ、弟子として召され、派遣されているからです。その誠実な日々の積み重ねが、神の国へ迎えられる扉につながっている事を覚えたいと思います。