感謝をもって、大いに喜び、大いに祝え

「感謝をもって、大いに喜び、大いに祝え」 イースター礼拝 宣教 2025年4月20日

 マタイによる福音書 28章1〜10節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。イエス・キリストのご復活、おめでとうございます。今年のイースターを皆さんとご一緒にお祝いできて感謝です。今朝は、「感謝をもって、大いに喜べ、大いに祝え」という主題で、イースターはなぜ感謝なのか、なぜ大いに喜ぶべきイベントであるのか、なぜ大いに祝うべきセレブレーションであるのかを分かち合いたいと願っています。

 

しかし、皆さんの中には、イースターに関して半信半疑の方もおられるかもしれません。死人の復活などあり得ない、信じられないと素直に感じておられる方々もおられると思います。一度きりの人生だから、自分の好きなように、悔いを残すことなく生き抜いてゆくという信念を持っておられる方々もおられるかもしれません。科学的に証明してくれなければ信じられないという方もおられるかもしれません。しかし、イエス・キリストの甦りは実験して証明できる事柄ではありません。復活されたイエス様と確かに再会した弟子たちが命をかけて2000年以上もずっと宣べ伝え続けてきたイエス様の十字架と復活を自分の耳でよく聴いて、一度で分からなければ何度も聴いて、最終的には自分の心で信じる必要があります。

 

今朝の礼拝への招きの言葉として、コリントの信徒への手紙一の15章17節と20節から22節を読みました。2000年前のキリスト教会にも、イエス・キリストの福音、つまり良い知らせを聴いてイエスを救い主と信じる人たちもいれば、死者の復活などあり得ない、イエスの甦りに対して疑念を持つ人たちがいたのです。そのような人々に対して、使徒パウロ、つまりイエス様の弟子は、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と17節で言います。イエス様の復活がなければ、わたしたちが今朝このように礼拝をささげていることは馬鹿馬鹿しいと言うことになります。「罪の中にある」とは不安や恐れや苦悩の中に生きていると言うことです。

 

しかし、パウロの主張はそこで終わりません。20節から22節で、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすベての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」と言うのです。「初穂」というのは、簡単に言いますと、「第一号」という意味です。聖書によりますと、人類で罪を最初に犯した第一号はアダムです。ちなみに第二号はエバです。彼らの犯した罪は誰に対してであったのか。それは彼らを創造された神様です。その罪によって人は死ぬ者となりましたが、神様が怒りをもってそうされたのではありません。

 

神様がアダムとエバに命を与えて生きる者とされた時、神様は二人を神様の愛の中で永遠に生きる者として創造されました。しかし、神の言葉に従わず、自分たちの考えと欲望を優先させたのです。自分たちの意思で、それは神様が与えてくださった自由な意思ではありますが、神様の言葉に従わないということを彼らが自ら選び取ったのです。神様の責任ではありません。神の言葉に従わないという「罪」によって、人は神様から、神様の愛から切り離されて苦労を重ねて生きる者となりました。しかし、人生の中で苦労して、苦悩して、疲労して、最終的には「死」を迎えるために、神様はわたしたちを造られたのではありません。

 

この神様とわたしたちとの分断を解決するために、神様はそのひとり子を、イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、そのイエス様がわたしたちの罪をすべて背負って、罪の代償を神様に対して払うために、十字架に架けられて死なれたのです。すべての罪をたった一人が負えるのかと疑うかもしれませんが、神様にできないことは何一つありません。神様は、イエス様を通してわたしたちの罪を赦すだけにとどまらず、わたしたちを永遠に神様につなげるために、イエス様を死人の中から甦らせ、復活する者の初穂とされたのです。

 

この神の独り子イエス様を救い主を信じて、そのイエス様の言葉に聞き従う者に、神様は永遠の命、永遠の祝福をお与えくださるのです。ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を(わたしたちを)愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。イエス様が十字架に死なれ、三日目に甦られたのは、わたしたちを神様に再びつなげて生かすためでした。

 

さて、聖書は、わたしたちに、イエス様の甦りを感謝しつつ、大いに喜び、大いに祝いなさいと励ますのですが、その理由をマタイによる福音書28章から聴いてゆきたいと思います。1節に、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」とあります。二人のマリアとはイエス様を尊敬し、ずっと従って来た女性の弟子たちです。イエス様と彼女たちの心は固く結ばれていましたが、イエス様は十字架で死を遂げられます。彼女たちは深く悼み、途方にくれたでしょう。そういう中でイエス様が葬られた「墓を見に行った」、つまりイエス様の墓参りに出かけたのです。

 

他の福音書では、彼女たちはイエス様の亡骸に香料を塗るために墓に行ったと記されていますが、マタイによる福音書では「墓を見に行った」とだけ記されています。理不尽な死を迎えられたイエス様が不憫に思えて、「せめて何かをして差し上げたい」という思いがあったかと思いますが、彼女たちがイエス様の墓に来た理由は、実は自分たちのためでもあったようです。イエス様の墓で思いっきり泣いて、少しでも悲しみを和らげたい、心にぽっかり空いた穴を少しでもふさぎたいと思って、イエス様の墓へ出かけたようです。

 

しかし、そのような彼女たちは、イエス様の遺体が葬られた墓で驚くべきことを体験します。2節から6節、「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』」とあります。

 

稲妻のように輝く天使の姿を見て、マリアたちは腰を抜かすほど驚いたでしょう。彼女たちは死なれたイエス様を見に墓に来たのですが、次から次へと驚くべき出来事が起こります。イエスの亡骸が弟子たちによって奪われないようにと墓を見張っていた番兵たちは、天使の出現に驚き、恐ろしさのあまり気絶したかの状態になっています。

 

恐れと不安を感じているマリアたちに天使は「恐れることはない」と言いますが、彼女たちは「恐れないほうがおかしい」と思ったでしょう。しかし天使は、「あなたがたが捜しているイエスはもうここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と驚くべきことを告げます。イエス様の十字架と壮絶な死、そして遺体が墓に葬られるまでの一部始終を見ていた彼女たちにとって考えられないことが目の前で起こっています。しかし、これらはイエス様がかねてから何度も予告されていたことだと天使は言い、イエス様の言葉を思い出し、それがいま現実となったことを自分たちの目で確認しなさいと招くのです。

 

天使はマリアたちに7節でこのように言います。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」と。死んだイエス様を見に来たマリアたちに対して天使は、イエス様は甦えられたと他の弟子たちに伝えるという使命・役目を与えました。これが彼女たちの新しい生きがい、生きる目的、喜びとなってゆきます。

 

8節に、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と記されています。嬉しさ半分、戸惑い半分ということでしょう。しかし、彼女たちの心には「このことを伝えたい、早く知らせたい」という気持ちが与えられます。イエス・キリストの言葉を信じて従う時に、生きる力が神様から与えられるのです。

 

9節に、「すると、イエスが行く手に立って『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」と記されています。復活されたイエス様がマリアたちに発した第一声は「おはよう」でした。この「おはよう」という言葉はギリシャ語で「カイレテ」という言葉が使われていますが、挨拶の言葉だけでなく、もう二通りに訳すことができます。一つは「喜びなさい」、そしてもう一つは「平安を得なさい」です。

 

イエス様を通して神様がわたしたちに望んでおられるのは、悲しんだり、痛んだり、苦しんだり、悩んだりすることではなく、平安のうちに、感謝をもって大いに喜びながら生きることです。わたしたちも、いつかこの地上での生活が終わる時が来ますが、復活されたイエス様を信じることによって「死」という恐怖から解放され、永遠の命が与えられるという希望をもって、喜びと感謝と平安のうちに生きてゆくことができます。それが神様の望みなのです。ですから、復活されたイエス様の次の言葉は「恐れることはない」であるのです。

 

最近、皆さんは誰かから「心配しなくても大丈夫だよ」と言われたことがあるでしょうか。今後の生活のこと、将来のこと、健康のこと、お金のこと、子どもたちの成長と未来のこと、わたしたちには心配することが数多くあります。しかし、復活されたイエス様は「わたしがこれからもずっとあなたと共にいて、あなたを守り、支え、あなたに必要なものを与えるから、わたしを信じて従いなさい」と招いてくださるのです。

 

わたしたちに大切なことは二つです。一つは、「喜べ、恐るな」と言ってくださるイエス様に近寄って、イエス様の足を抱き、その前にひれ伏すということ、つまりイエス様を信じて、礼拝をささげることです。もう一つは、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。」とあるように、イエス様が甦られたことを人々に伝え、その心をイエス様のもとに向かわせるということです。感動をもって神様の愛を人々と分かち合ってゆくことが、わたしたちの心の心にぽっかりと空いた穴をふさぐ喜びとなり、力となるのです。

 

イエス様は、わたしたち一人ひとりの心の穴を喜びと平安と希望でふさぎ、新しい生きがいを与えるために、共に歩んでくださるために、甦られました。神様がイエス様を復活させたのです。ですから、イースターはおめでたいのであり、感謝をもって、大いに喜び、大いに祝う日であるのです。聖書にあるように、実際に、救い主イエス・キリストは甦られました。今年のイースターを、感謝しつつ、共に喜び祝いましょう。イースター、おめでとうございます。