「神の豊かな憐れみにより、わたしたちは救われます」 五月第四主日礼拝 宣教
エフェソの信徒への手紙 2章1〜10節 牧師 河野信一郎 2025年5月25日
おはようございます。5月も最後の主日となりました。今朝は、欠席の連絡が多い礼拝となりましたが、この礼拝堂に集められた皆さん、そしてオンラインで礼拝をささげてくださる皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて主に心から感謝です。
今年に入ってから海外からの旅行者が毎週のように礼拝に出席されるようになっています。時には一度に3・4名いらっしゃるので、準備した宣教の英訳原稿が不足することが増えて来て、アッシャーが急遽追加のコピーをする事態が起こっていました。一期一会の礼拝になりますが、それでも日本のキリスト教会として最善のおもてなしをしたいと思うのはわたしだけではないと思います。旅行者の方々が礼拝に出席くださることはとても感謝なことですが、迎える教会側があたふたする事がないように対策を一つ講じました。それが今朝皆さんのお手元にあるハガキサイズの素敵なカードです。ピーター宣教師が作成してくださいました。カードにあるQRコードを読み込むだけで、教会ホームページも見れますし、当日のメッセージが日本語と英語で読むことができます。とても便利になりました。これで負担もだいぶ軽減できるのではないかと期待し、すべてを導いてくださった神様に感謝いたします。
さて、大久保教会の皆さんにとってはとても寂しく残念なお知らせをし、お祈りのお願いをしなければなりません。1969年1月から56年間、大久保教会で神様には忠実に、教会には誠実にお仕えくださったKT兄とA姉のご夫妻が来月横浜へお引っ越しされるとの連絡が昨日午後にありました。87歳になられたT兄と7月に82歳になられるA姉は、長女の娘さんのお住まいの近くに移り住むことになりました。
先週18日の日曜日、K兄は教会学校から出席されましたが、礼拝の最中に背中の痛みが激しくなられたので礼拝の途中でお帰りになられました。ですので、これまでずっと一緒に歩んで来られた皆さんと最後の挨拶が出来なかったと大変残念がられています。わたしも26年間もずっとお世話になってきましたのでとても寂しいですし、わたしの家族はみんな悲しんでいます。しかし、娘さん家族のサポートが必要になって来られたのは確かなことですので、本当に切なくなりますが、わたしたちは、憐れみの主の御手に委ねなければなりません。大久保教会での56年にわたる教会生活・信仰生活を力強く導いてくださった神様に感謝をし、神様と大久保教会を愛し、心と思いと力を尽くして教会に仕えてくださったKご夫妻に感謝すると共に、新しい地でのご夫妻の生活が日々守られますように、わたしたちも心を尽くして、ご夫妻への慈しみの神様の伴いとご加護と恵みをお祈りいたしましょう。
しかしそうは言っても、皆さんの中には、Kご夫妻が転居されると聞いて、心にぽっかり穴が開いたような感覚の方もおられるかもしれません。あるいは、日々の忙しさの中で心が疲弊しておられる方や心配事が多くあり過ぎて心が押し潰されそうになっておられる方もおられるかもしれません。何か失敗をして、恥に思ったり、身の置き場もないと苦しんでおられるかもしれません。仕事や学校やコミュニティーの中で人間関係が複雑になり過ぎて悩んだり、落ち込んでおられるかもしれません。(旅行者の方々は、日本があまりにも良すぎて、自国へ帰りたくないと感じておられるかもしれません。)
そういう中で、わたしたちの中には、神様の憐れみが必要だと強く感じておられる方もおられるのではないでしょうか。そういう心に重荷を負うわたしたちに対して、主イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招いてくださることを今月最初にマタイによる福音書11章28節から聴きました。
さて、今朝はエフェソの信徒への手紙2章1節から10節の御言葉に聴きますが、ここには、わたしたちのイエス・キリストを信じる以前の状態と信じた後の状態が記されています。ここでは、どのように劇的に変わったのかが重要なポイントではなく、いったい誰がどのような理由で、何の目的のためにわたしたちを変えたのかが重要なポイントになります。
まず1節から2節までを読みたいと思いますが、使徒パウロは、ここでわたしたちがイエス様を通して救いを与えられる以前の状態をはっきり記しています。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」とあります。「今も働く霊」とはサタンのことで、これに支配されていたのです。
「あなたがたは」とは、わたしたち一人ひとりのことです。誰かを探す必要はありません。そのわたしたちは「自分の過ちと罪のために死んだ状態であった」とパウロは言います。これは物理的・肉体的な死ではなく、霊的に死んだ状態のことです。つまり、自分の犯した過ちや罪が神様との関係性を壊し、断ち切った状態でいたということです。命の源である神様とのつながりを失っていた者は、肉体的には生きていても、心と魂は死んだ状態であった。
この世の富や快楽に心奪われ、欲望にのめり込み、その欲望とこの世の価値観だけで物事をすべて判断し、この世のものに心が支配された状態です。自分と自分の大切なもののためだけに生き、本当の自分を知らない、何のために命が与えられているのか、何のために生きているのか分からないのがわたしたちでした。物事が上手くいかないと、誰かに責任を押し付けたり、「人生はそんなもんだろう」と言い逃れをしたり、「仕方がない」と簡単に諦めたりするのがわたしたちでした。「不従順な者たち」とは、神の存在を認めず、神をまったく畏れ敬わない人たち、富や権力、自分の力だけに頼って生きる人たちのことです。
パウロは、3節で、「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」と言っています。一人も例外なく、わたしたちはみんなです。自分の欲望のままに考え、行動して、生きるのがわたしたちです。そして自分の欲望が満たされず、願望が叶わないと、ストレスを感じ、怒りや不満の矛先を自分以外の人に向けてしまう、そういう弱さを持っています。その弱さが「過ち」であり、「罪」です。そのようなわたしたちは、「神の怒りを受けるべき者でした」とパウロは言います。神に裁かれるべき存在であり、「怒りを受けるべき者」、つまり「滅びるべき者」であったのです。わたしたちは、落胆し、絶望し、闇の中で泣き叫ぶしかない哀れな者であった訳です。
けれども、そのようなわたしたちに目を留め、寄り添ってくださる方がおられると使徒パウロは言うのです。4節から6節が大切です。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、〜あなたがたの救われたのは恵みによるのです〜キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」と力強く宣言します。
ここで大切なことは五つです。一つは、神様はわたしたちに対して豊かな憐れみをもって愛を与えてくださるということです。二つ目は、その愛は救い主イエス・キリストを通して与えられるということです。三つ目は、イエス・キリストを救い主と信じる者は救われるということです。四つ目は、この救いはわたしたちの行いによるものではなく、神様からの一方的な愛と憐れみ、恵みであるということです。五つ目は、「キリストと共に、天の王座に着かせてくださる」、つまり神の御国において永遠の命に生かされるという約束です。将来のこともすでに与えられているかのように信じなさいという招きであり、神の恵みなのです。
5節に「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とあり、「救われた」が完了形となっています。つまり神様の憐れみによって救われたという事実はすでに完結しているのです。すなわち、わたしたちは救いへの途上にあるのも、自分の救いのために努力するのでもなく、唯々、神様の憐れみによって救い上げられ、生かされているということです。この恵みをパウロは7節で「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と言います。
パウロは、8節と9節で、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」と言っていますが、日本語訳は正確ではないと思います。正確には、「恵みにより、信仰を通して」になります。「信仰によって」となると信仰がわたしたち人間の行為と考えられ、そうなると自分を誇ることになります。そうではなく、わたしたちは、神様の一方的な恵みにより、またキリストを通して与えられた信仰という憐れみによって救われているのです。わたしたちに誇るべきものがあるとしたら、それは「わたしのような者さえも、神様は愛してくださっている」ということだけです。
わたしたちが知らなければならないこと、感謝しなければこの世界に真の平和が来ないこと、それは10節にあるように、「わたしたちは神に造られたもの」であるということです。わたしたち一人ひとりが憐れみ豊かな神様によって造られた存在であることを、イエス様を通して知り、喜び、感謝することができるならば、わたしたちは互いを愛し、大切にすることが神様の愛と憐れみの力によって出来るはずです。わたしたちは善い業、愛の業を行うためにキリスト・イエスによって新しく造り変えられた者であり、神様の愛を分かち合うために救われ、この地上に生かされ続けているのです。神様の愛と憐れみを覚えていつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝をいたしましょう。