「わたしたちを支える聖霊の助けと執り成し」六月第四主日礼拝 宣教 2025年6月22日
ローマの信徒への手紙 8章26〜27節 牧師 河野信一郎
おはようございます。蒸し暑い日々が続く中、今朝も神様に大久保教会へと招かれ、礼拝者とされている幸いを神様に感謝いたします。ゲストの方々、オンラインで礼拝に出席くださっている方々、久しぶりに教会に戻ってきてくださった方々を心から歓迎いたします。それぞれの日々のご健康と歩みが神様によって守られますようにお祈りいたします。
さて、明日23日は沖縄の慰霊日、命どぅ宝の日です。今朝の礼拝後にある女性会からのプレゼンテーションの準備のために、ほぼ半日かけてパソコンとにらめっこしてパワーポイントの作成をしていた妻が呟きました。インターネットで沖縄の写真を見つけようとすると、晴れ渡る沖縄の空、美しく輝くオーシャンビューと砂浜、賑やかな観光地、自然豊かなリゾートなど光の部分ばかりで、沖縄の戦時中の苦しみ、そして戦後80年の痛みや傷跡という闇の部分が見つからない、わたしたち本土の人間は、沖縄の人々が負わされてきた痛みや苦しみ、苦悩をもっと知るべきだと心を痛めていました。沖縄を覚えて祈る必要があります。
また、今日から29日の日曜日までは、献身して神学校で学んでいる神学生を覚えて祈る「神学校週間」です。来週の礼拝後に神学生を支える献金のアピールと東京神学大学で学んでいる学生の証しの時間がありますが、神学校で牧師や伝道者となるべく学び、訓練を受けている神学生の数が激減している深刻な状態を覚えて、神様に祈らなければなりません。
他にも、自分や家族のことを覚えて祈るべきこと、社会や世界のために祈るべき課題が山積しています。教会や教会の家族のために祈るべき事柄があります。日々の生活の中でも、乗り越えなければならない問題があり、一難去ってまた一難という現状です。自分の力や努力だけでは解決できない事柄や不安にさせる材料が数多くあり、そういう苦しみや悩みを周りの人々と分かち合うことが難しい、そうするだけでも相当な覚悟と力が必要になります。
とてつもなく大きな壁にぶち当たると、わたしたちは混乱してどうして良いのか分からなくなってしまい、心が徐々に弱くなり、自分を守ることしかできないような、心に余裕がなくなってしまい、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさいという御言葉に生きられない、生きづらさを感じることがあります。不安や恐れに押し潰されそうになって、神様に祈れなくなる、叫びたくても叫べなくなる時があります。しかし、そういう危機的な状況に置かれても、わたしたちの近くに神様がおられます。聖霊がいつも共にいて、わたしたちを慰め、励まし、支えてくださいます。助けてくださるのです。
ローマの信徒への手紙8章26節に、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」という使徒パウロの言葉がありますが、神様の御言葉です。この「霊」は聖霊のことです。「弱いわたしたち」というギリシャ語を直訳すると「わたしたちの弱さ」となります。そしてこの「わたしたちの弱さ」とは、人間の弱さではなく、信仰者の弱さ、クリスチャンの弱さという意味です。イエス様を信じ、イエス様につながれ、神の子とされているにも関わらず、それでもわたしたちは弱い存在です。クリスチャンになったから強くなるというわけではなく、クリスチャンでも弱さが残り続けるということを認める必要があります。
ただ、イエス様を信じる者には弱さの中にも強さがあります。それは自分の中にある強さではなく、神様の約束であり、主がいつも共にいてくださるという神様の愛です。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」というのは、聖霊がわたしたちの弱さを助けてくださるということです。そこにわたしたちの希望があり、慰めと励ましがあるのです。
わたしたちには身体の弱さと心の弱さと信仰の弱さがあります。歳を重ねる中で身体が衰えてゆき、肉体的な弱さを感じます。病気や怪我をしたら、身体と心が同時に弱ります。心に不安や悩みや悲しみを抱えると、心は弱ります。心と身体は連動しています。心が前進できなくなると、身体も前進できなくなるのです。
イエス様を信じ、信仰を持ったら心も身体も強くなるというわけではありません。イエス・キリストを通して神様から信仰が与えられても、心が弱る時、悩む時、苦しむ時をわたしたちは経験し、その苦しみや悩みに圧倒されてしまい、神様に祈れないという信仰のスランプを経験するのです。皆さんはどうでしょうか。
パウロは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」、どう祈るべきか分からなくなることがあると正直に言っています。パウロでもどう祈るべきか分からなくなる時があったのですから、わたしたちならばなおさらです。「どう祈るべきか」とは、何を祈るべきか、何を祈ったら良いのか、何のために祈るべきなのかが分からなくなるということです。
信仰のスランプに陥ると混乱して祈ることに意味がないと感じるようになります。そう感じるのは神様が心の中心ではなく、自分の思いが主軸になっているからです。心が神様ぬきの状態になっています。祈れなくなるとは神様に愛されていることを忘れ、神様との交わりを持つことを止めてしまうということです。自分の力だけで生きようとしてしまうことです。
しかし、そういう弱さを持つわたしたちを知っておられる神様が、わたしたちの弱さに寄り添うために、聖霊という助け主をイエス様の代わりに派遣してくださったのです。心も、身体も、信仰にも弱さがあるわたしたちを憐れみ、いつも共にいて助けてくださるために聖霊という神がおられます。26節後半に、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自ら『が』」とあります。この「が」が非常に重要であり、神様の憐れみを表しています。
わたしたちが様々な課題や問題と直面する中で弱り果ててしまい、誰に向かって祈るべきなのか、何を祈ったら良いのか、何のために祈るのかという意味を見失っても、聖霊がわたしたちを助け、わたしたちの心を神様に向けさせ、神様との交わりへと導き、その交わりの中でわたしたちの心を励まし続けてくださるのです。これは神様の憐れみの業、恵みであって、わたしたちの業ではありません。
ここに「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」とありますが、この「助ける」というギリシャ語は、三つの言葉が組み合わさっている言葉です。それは、「共に」と「代わって」と「引き取る・引き受ける」という言葉です。日々の生活の中で苦しみに直面し、翻弄される中で、与えられた信仰が弱くなり、神様から心が離れ、祈れなくなるわたしたちを聖霊は見捨てることなく共にいてくださり、わたしたちに代わって神様に祈ってくださるというのです。
つまり、わたしたちの祈りを、言葉にならない呻き・叫びを、聖霊が引き受けてくださり、神様に届けてくださるというのです。それが「執り成し」という言葉の意味です。自分の信仰は弱い、自分はダメだと思い込んでいるわたしたちをそれでも愛してくださり、助けてくださる聖霊という神がわたしたちと共に歩んでくださる恵みがあるのです。
この聖霊は、イエス様がわたしたちの罪という重荷を代わって担ってくださったように、わたしたちが神様に祈れなくなるような、神様から心が離れてしまうような苦しみや悲しみや痛みを聖霊が代わって担ってくださる神です。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」というのは、聖霊がわたしたちに代わって呻いてくださる、神様に叫んでくださる、わたしたちの重荷を共に担ってくださり、思いを神様に届けてくださるということです。
ですから、これまでも、これからも、自分の力で生きようとはせずに、助け主・聖霊に日々助けていただき、神様の愛の力、イエス様の復活の力によって生きることを信仰によって選び取り、感謝して、喜びと平安と希望を神様からいただきましょう。聖霊に満たされることを心から求めましょう。そのためにまず自分の弱さを認め、心を開いてイエス様を救い主と信じましょう。その開かれた心に聖霊が入ってくださり、共に歩まれます。
27節に、「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」とありますが、神様はわたしたち一人ひとりの心を見抜いておられます。すべて知っておられます。わたしたち以上にわたしたちの心身の状態を知ってくださっています。ですから、心の中にあるすべてを神様に明け渡し、委ねてゆくことが心に平安と喜びと感謝の思いをいただく秘訣です。
とても興味深いことが記されています。神様は「“霊”の思いが何であるかを知っておられます」とパウロは言います。この「霊の思い」とは、どのような聖霊の思いなのでしょうか。聖霊のわたしたちに対する思い、願いは、27節の後半にありますように、わたしたちが神様の御心に従って生きる聖なる者たちに変えられてゆくことです。それができるのは聖霊なのです。聖霊がわたしたちを聖なる者へと作り変えて、神様の御心に従って歩むことを願っているのです。
その思いを神様もよく知っておられます。何故ならば、それが神様の願いであり、イエス様の願いでもあるからです。わたしたちが神様の御前に聖なる者として生きるために、聖霊はわたしたちのもとに神様からイエス様の代わりとして遣わされ、わたしたちを助け、そして日々執り成してくださっているのです。
わたしたち弱さを持つ者を愛してくださり、共にいてくださり、助けてくださり、執り成しをしてくださる聖霊を信じて生きることを求める時に、祈る者と変えられ、自分のためだけに生きる者から、神様と隣人のために生きる者へと変えられ、弱ることがあっても絶望することなく、希望をもって生きる者とされてゆくのです。聖霊を信じて、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する日々を歩ませていただきましょう。