あなたをしっかり立たしめる力

「あなたをしっかり立たしめる力」 六月第五主日礼拝  宣教 2025年6月29日

 エゼキエル書 1章28〜3章4節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。暑い日が続きますが、今朝もこのように礼拝堂へと集められ、ご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて主に感謝です。オンラインで礼拝をささげておられる方々も歓迎します。今週も猛暑が続くということですので、熱中症などにならないように、くれぐれもお気をつけてお過ごしください。守られますようにお祈りしています。

 

今年の夏も暑さのために教会に戻れない日もあるかと思います。日曜日には皆さんとご一緒に礼拝を毎回おささげしたい気持ちは一杯ですが、命の危険を冒しても教会に来ることは極力避けた方が良いと思います。そのような場合は無理をしないで家に留まって、オンラインで礼拝をおささげいただきたいと思います。ただ、7月は教会の創立記念月間であり、27日には感謝の礼拝をおささげしますので、その日の礼拝には出席できるように心を尽くしてお祈りいただき、その日の礼拝のために備えをしていただきたいと思います。

 

昨日夕方、ハワイのGP教会のJS牧師と伝道チームの方々が教会に来てくださり、大久保教会の創立60周年をお祝いしてくださいました。そして、大久保教会の今後の祝福のためにお祈りくださいました。大久保教会がたくさんの方々に愛され、祈られていることをリマインドさせられ、とても感動し、主に感謝をささげました。

 

GP教会の夏の聖書キャンプに参加した子どもたちが大久保教会にお祝いのメッセージをたくさん書いて送ってくださり、多額の献金をささげてくれました。まだ会ったことのない子どもたち、兄弟姉妹たちの祈りのうちに大久保教会が覚えられ、愛されている。それはパウロ書簡で何度も記されているような、主にある教会たちの間にあった愛の支援を実際に体験しているかのようでした。苦しい中にあっても主が共におられる。そういう恵みを体験することができて感謝でした。GP教会の伝道チームは今週土曜日まで諸教会と一緒に神様の愛とイエス様を伝えてくださいますから祈りに覚えましょう。

 

さて、お祈りのリクエストがもう一つあります。今日、14時半からTJ教会で日韓の青年たちの合同賛美礼拝があり、わたしがメッセージを担当します。詩編23編とヨハネ福音書10章から、イエス・キリストがわたしたちの良き羊飼いであること、この羊飼いの声と導きに従ってゆくことが大切であることを青年たちと分かち合いますので、礼拝堂が聖霊で満たされ、わたしも聖霊の励ましによって福音が語れるようにぜひお祈りください。

 

6月も今日と明日で終わり、火曜日から2025年の後半に突入しますが、この6月はペンテコステがありましたので、聖霊の働きについてメッセージをしてきました。その締め括りとして旧約聖書のエゼキエル書の2章が導かれました。今朝のメッセージのタイトルは、「あなたをしっかり立たしめる力」としましたが、わたしたちの人生には、喜びと感謝な日々だけでなく、様々なことに思い悩む日々が時折生じます。毎日がそういう悩ましい日々という方ももしかしたらおられるかもしれませんが、思い悩み、悲しみ、心の痛みがあまりにも大き過ぎて、自分の力で立ち上がって前に向かって進むことが困難に思える時が人生の中で幾度となくあるかと思います。皆さんには、そのような辛い経験があるでしょうか。

 

しかし、そういう苦しい時にも主なる神様はわたしたちの近くにおられ、わたしたちを慰め、励まし、魂に休息を与え、自分の足でしっかりと立たしめる力をお与えくださいます。わたしたちは、神様がその立たしめる力をどのように与えてくださるのかを聖書から聞き取って、その方法を心に留めて、日々の生活の中でその方法を適応する必要があります。そのように生きることが御心です。わたしたちが日々聖書を読んで、御言葉を日々の生活にしっかり適応し、信仰と勇気を持って歩んで欲しいと神様は願っておられます。

 

さて、エゼキエル書の背景を少しだけお話しする必要がありますが、バビロン帝国との戦いに敗れたイスラエルの主だった人々が捕囚の民・奴隷としてバビロンに連れて行かれました。その捕囚の民の一人が、エゼキエルという25歳の祭司の卵でした。

 

エゼキエル書1章1節から3節には次のように記されています。「1第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。2それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。3カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。」とあります。

 

捕囚の民となってから5年が過ぎ、エゼキエルは30歳になっていました。30歳というのは祭司に任命される年齢で、働き盛りの年齢です。しかしエゼキエルは、自由のない土地で、家の前の川の流れをずっと見続けて暮らすような、非常に虚しい日々を送っていたのではないでしょうか。しかし、その時、天が突然開かれ、神の御手がエゼキエルの上に臨むのです。彼は幻を見るのです。雲の中に奇妙な生き物を見ます。その生き物の頭上に王座のようなものが見え、その王座に光り輝く存在が座っていました。

 

エゼキエルはその幻の光景を「主の栄光の姿のようであった」と記憶します。その光り輝く存在とは、まさしく主なる神様でした。その神様がバビロンという異国の地に現れ、エゼキエルに話しかけられるのです。1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。」とあります。

 

捕囚の民としての自由のない生活の中、生きる力も湧いてこない、祭司としてエルサレム神殿で神に仕えたいという思いはあっても、そのようにできるのかという希望を抱けない状態に置かれていたエゼキエルに、突然、神様が臨まれ、語りかけられ、彼を預言者として任命するのです。捕囚の民としての絶望しかなかった人に、預言者として生きる目的とその任務を果たすための力を主なる神様がエゼキエルに与えられるのです。

 

その内容が2章と3章に記されているのですが、この箇所から、たとえ苦悩の只中にあっても、希望を見出せないような状況下に置かれ、立ち上がることが難しいわたしたちをしっかり立たしめる力を神様が与えてくださるということを聞き取ることができ、御言葉をわたしたちの生活の中で適応できると信じます。わたしたちクリスチャンは、この大久保教会は、神様の愛を分かち合い、イエス・キリストを伝えるために生かされています。それがわたしたちの生きる意味であり、目的です。エゼキエルやイザヤやエレミヤのような預言者にならなくても、神様の愛を人々と日々分かち合う人になり、神様には忠実に、人々には誠実に仕える者として生きることを神様は望んでおられます。

 

そのような力がわたしたちになくても、イエス様の弟子として生きてゆくために必要な力を神様が与えてくださるのです。わたしたちを用いて、一人でも多くの人々が神様の存在に気付かされ、悔い改めて神様に立ち返り、神様の豊かな愛を受け取ってほしいからです。そのためにわたしたちは救われ、恵みのうちに今日も生かされているのです。

 

イエス・キリストの弟子として、神様の愛に生かされている者として、わたしたちに最初に必要なのは、神様の前にひれ伏して、神様の声に、神様の語りかけに聞くことです。わたしたちだけでなく、すべての人が神様にどれだけ愛されているのか、わたしたちを救うためにイエス様が十字架上で何をしてくださったかを聞く必要があります。イエス様の十字架の贖いの死と甦りの背後にある神様の愛を知る時、わたしたちは新しく作り変えられるのです。

 

2章1節に、「彼はわたしに言われた。『人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。』」とありますが、彼とは神様のことです。その神様が、「自分の足で立て」とお命じになります。わたしたちがしっかり立つために必要なのは神様の言葉に従うことです。神様の言葉に聞き従うと決心した時、2節にあるように「神の霊が、聖霊」がエゼキエルの中に入って立ち上がったように、わたしたちの中に聖霊が入るならば、わたしたちは自分の足で立つことができ、聖霊の力で大胆に神様の愛・イエス様を分かち合うことができるのです。

 

3節から7節には、わたしたちが遣わされる人々がいかに反逆的で、恥知らずで、強情な人々であるかが記されています。わたしたちの心は萎えてしまいそうです。しかし、神様は8節で、「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」とお命じになります。3章1節にも、「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」とあります。日々の生活の中で聖書を読むことが、いかに重要かが記されています。

 

2節には、「わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて」くださったとあります。わたしたちはただ口を開いて、主が食べさせてくださることを待つべきでしょうか。ヒナの場合はそうでしょう。しかし、ある程度の成長が与えられた時には、自分で御言葉を読んで、御言葉に養われる必要があります。

 

3節には、「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」とあります。神様の愛を、イエス様の言葉を人々と分かち合う前に、わたしたちがそれぞれに御言葉を、神様に愛を受け取り、味わう必要があるのです。わたしたちをしっかり立たしめる力、それは神様に愛、御言葉であるイエス・キリスト、そして心を揺さぶってくれる聖霊であることを感謝しましょう。御言葉を人々と分かち合うために、聖霊に助けられて、御言葉にまず養われてまいりましょう。