「神の愛に永遠にとどまる人とは」 七月第二主日礼拝 宣教 2025年7月13日
詩編 15編1〜5節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も神様から礼拝へのお招きに与り、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできて感謝です。金曜日から暑さがだいぶ和らぎ、過ごしやすくなったと思いきや、台風シーズン到来と聞いて、どう対応して良いか分からなくなってしまいますが、今日という日に恵みのうちに生かされていることを主に感謝して、今後のすべてを委ねてゆきたいと願い、祈ります。皆さんの上に神様の伴いとお護りと導きがありますように祈ります。
さて、7月は大久保教会の誕生月であり、今年は教会が創立してから60周年を迎えましたので、これまでの教会の歩みを振り返ると同時に、これからの教会の歩みについて考え、祈る月間としたいと願っています。神様のご計画の中、アメリカのクリスチャンたちの篤い祈りと献金によってアメリカから派遣されたハロウェイ宣教師ご夫妻の信仰と愛と祈りによる働きによって、キリストの福音の種がこの大久保の地に1953年から蒔かれ、その種が1965年に芽を出し、大久保教会が誕生しました。それ以降、神様の憐れみと多くの信仰の先輩がたの祈りと働きと献金によって教会は実を結び、成長してきました。いえ、成長させていただきました。すべては、神様の御業であり、信仰の先輩がたの信仰、つまり神様に対する愛と祈りと忍耐の結晶が今の大久保バプテスト教会だと思うのです。
わたしたちは、その信仰のバトンを今日まで受け継いできました。そして、わたしたちはこのバトンを次の世代の信仰者たちへ渡してゆく責任があります。大きな責任の伴う働きです。これはわたしたちがみんなで担ってゆかなければならないこと、みんなで取り組むべきプロジェクトです。この働きの一部を皆さんにも今後担い続けていただきたいと願っています。皆さんにできることがあります。このプロジェクトをわたしたちがみんなで担わないと、この教会はいずれ消滅してしまいます。消滅することが神様の御心でしょうか。いいえ、違います。大久保教会がこの地の灯台のようにキリストの光を照らし続けることが神様の御心です。ですから「灯台下暗し」とならないために、互いに支え合う必要があります。
2週間前の神学校週間のアピールの時に神学校の現状が赤裸々に分かち合われましたが、牧師の高齢化の深刻さ、牧師の数の減少、牧師になるべく神学校で学んでいる学生の数の激減が伝えられました。しかし、深刻さはそれだけではないのです。神学生を牧師・伝道者として整える役目のある神学校の教授たちも高齢化し、次世代を担う教育者がまったく育っていないのです。ですから、色々な教派の神学者たちを寄せ集めている神学校もあるのです。
ですから、わたしたちは自分のことばかり考えてはならないのです。自分の教会のことだけを考えてもダメなのです。神様と隣人に対する教会の使命を第一に考えて行動すべきなのです。何故ならば、わたしたちを愛し、わたしたちの救いを第一に考えてくださった神様とイエス様、そしてイエス様の弟子たちの忠実な働きによって、わたしたちは救い主イエス・キリストに出逢うことができ、神様の愛と赦しと救いを受けることが出来たからです。この愛を独り占めすることなく、隣人たちと分かち合ってゆくことが神様の御心であるのです。
そのようなことにずっと思い巡らしながら、神様の導きを祈る中で導かれた7月のキーワードは「Abide」という言葉でした。この言葉は、「つながる」、「とどまる」、「宿る」という意味を持つ言葉です。このコンセプトの基礎となる御言葉は、ヨハネによる福音書3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。これが福音の土台です。
神様は、わたしたち一人一人を愛し、神様につなげて神の子とし、神様と共に永遠に生きる者とするために、独り子イエス様を救い主としてこの地上に送ってくださいました。神様との関係性が罪のよって切れてしまったその関係性を再びつなげるために、わたしたちの救いのために、カルバリの丘の十字架上で、その尊い命を捨ててくださいました。
使徒パウロがコロサイの信徒への手紙1章21節から22節で、「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者としてくださいました。」と記している通りです。この神様の愛、イエス様によってもたらされた神様との和解の福音を人々に伝えてゆくことが教会の使命です。この使命をずっと持ち続けるために必要なのがイエス・キリストを信じる信仰です。コロサイ1章23節でパウロは、「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と書き記し、この言葉を大切にする必要があります。
先週は、ヨハネによる福音書15章から、救い主イエス・キリストにつながり続ける重要性を聴きました。イエス様につながることが神様につながることであり、永遠の命を受け継ぐ道であることを聴きました。今朝は、神の家に宿るということを旧約聖書の詩編15編から聴き、来週20日の礼拝では、神様の愛にとどまることが永遠の祝福を受けることになることをヨハネの第一の手紙から聴いてまいります。ですから、まだイエス様を救い主と信じておられない方は、イエス様と出逢うことを祈り求めてください。イエス様と出逢って、イエス様を知れば知るほど自分がどれだけ愛されているかが分かります。人生が変えられます。
イエス様を通して神様から信仰という恵みを受け取っておられる方々は、どうぞ、イエス様につながり続けること、神のおられる所に宿り続けること、そして神様の愛にとどまり続けることを祈り求めてください。そのように祈り続けることによって、一人一人の信仰は守られ、同時に教会も守られ続けます。御心だから神様の愛の力によって必ず守られるのです。
今朝のテキストとして詩編15編が導かれたのは、1節に「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか。」という言葉があったからです。ここにある「幕屋」、「聖なる山」とは、神様との交わりを表しています。最初に結論を申しますが、主なる神様を信じ、この憐れみの神様との交わりを継続する人が、神様のご臨在の中で永遠に祝福されるのです。神様の愛の中に永遠にとどまり続けるのです。しかし、皆さんの中には、もっと具体的なことを教えてほしい、「どのような人が永遠に神様の愛を受け続けることができるのか」を教えてほしいと願われることでしょう。
詩編15編を詠んだ詩人は、2節で「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉がある人」と言っています。この言葉に神様に祝福される人の必要条件が3つ記されています。そして続く3節から5節は、その3つの必要条件の具体例であって、5節の最後には「これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう。」と言っています。2節にある3つのことを大切にしたら、すべてのことは成功へと導かれるのです。
まず、「完全な道を歩きなさい」とあります。これは神様に対して「忠実に生きなさい」ということです。「完全な道」とは、神の存在を知り、その神の言葉に服従するということです。わたしたちを創り、命を与え、愛を注いでくださる神様を畏れることが知恵の始まりであり、永遠の祝福の始まりなのです。神様の愛に感動し、喜び、日々その愛に応えて生きることが、神様に忠実に生きることであり、永遠に神様の愛にとどまることなのです。
次に、「正しいことを行いなさい」とあります。他の聖書訳では、「義を行い続けなさい」と訳されていますが、これは隣人に対して正しく生きる、「誠実に生きなさい」ということです。使徒言行録10章35節に、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」とありますが、隣人に対して、分け隔てなく、平等に接し、誠実に生きる人が永遠に神様の愛にとどまるのです。神様がとどめてくださるのです。
最後に、「心に真実の言葉がある人が重要」とあります。これはいつも心から真実を語る人、つまり自分に対していつも素直で、正直で、真面目な人という意味であって、つまり自分に対しても「いつも信実に生きなさい」ということです。そのような信実な人を神様は永遠に祝福されるのです。
自戒としていつも心にとどめ、努力していることですが、自分に正直でない人、嘘偽り、二心、へつらいがある人、つまり信実でない人は、周りの人に対して誠実に接することはできません。隣人に誠実に生きられない人は、神様に対して忠実に生きられません。神様を愛していると言いつつ、隣人を愛せないのは、神様を愛していないことと同じだからです。ですから、神様に忠実に生き、隣人にも誠実に生きるためには、まず自分に対して信実でなければなりません。しかし、自分に正直に生きることも難しさを覚えることがあります。
わたしたちには罪がありますから、自分にも嘘をついて自分の弱さをごまかしてしまいます。ですから、隣人に対してもごまかし、神様に対してもごまかしてしまいます。そのような弱さを持つわたしを、わたしたちを信実な者に造り変えてくださるのがイエス・キリストなのです。ですから、イエス様を救い主と信じ、イエス様につながり続ける必要がわたしたちにはあるのです。
イエス様につながって、自分に対して信実で、隣人に対して誠実で、神様に対して忠実な人は、「舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」として生きられ、これらのことを守る人は、神様の愛の中でとこしえに揺らぐことがないのです。神様に愛にとどまり続けましょう。