神の言葉を拒み続ける民の末路

「神の言葉を拒み続ける民の末路」 九月第三主日礼拝 宣教 2025年9月21日

 エレミヤ書 6章10〜23節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。この頃は雨も多くなり、だいぶ涼しくなってまいりました。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。今月は「教会学校月間」ですが、9月もあと10日ばかりとなりました。来る28日の教会学校にご出席ください。あるいは、この礼拝堂で毎週日曜日の朝10時10分から開かれていますクラスにご参加ください。

 

さて、今朝もエレミヤ書に聴くシリーズを進めてまいります。今朝は6章に聴いてゆきますが、その前に先週のメッセージの振り返りをしたいと思います。前回のメッセージでは、傲慢になってしまったイスラエルの民がそれ故に神様から嗣業の地として与えられた土地を荒廃させてしまい、その土地から追い出されて捕囚の民となってしまった理由を2章と4章から聴きました。根本的な理由・原因は、イスラエルの民が主なる神様を忘れ、主の言葉に聞き従うことを止めてしまい、それ故に神様との契約を守ることをしなくなり、その結果、虚しく忌まわしいものを偶像化し、それらを礼拝するようになったことにあります。

 

神様は、預言者エレミヤを通して、イスラエルの民が悔い改めて神様に立ち帰るようにと何度も繰り返し迫るのですが、彼らは悔い改めるどころか逆に開き直って、神様に立ち帰ることを拒絶します。神様と契約関係にあることを完全にしらばくれるのです。わたしが驚いたのは、「迷い出てしまったからにはあなたのもとには帰りません」と言う開き直った彼らの言葉でした。信じがたいのは、助けにならない異教の神々に仕える民だけではありません。神様に仕えるはずの祭司たちは富をかき集め、預言者たちは偽りの預言をするのです。この民全体は、神様を捨て去るのです。その背神行為にお怒りになられた神様は、民と「争う」とまで言われ、北から大軍を遣わし、裁きを下すとエレミヤを通して言うのです。

 

しかし、それでもイスラエルを愛する神様は、エレミヤを通して、「イスラエルよ、わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」と何度も神様の許へ戻そうとされるのです。しかし、心が麻痺してしまったと言うか、頑なであるがゆえに、イスラエルの民は誰一人として神様に立ち帰ろうとしません。神様は、「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうともせず。愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく、善を行うことを知らない」(4:22)と言われます。そして、神様はイスラエルを裁くために、遠い北から大軍を送ると宣告されるのです。

 

さて、ここで皆さんに質問です。過去からでも、現在からでも良いです。皆さんは、本当に傲慢で、強欲で、さらに頑固な人物を誰か知っておられるでしょうか。何度注意しても、それを無視して自分勝手に生きる人、誰か知っておられるでしょうか。もしかしたら、家族内や職場や学校内に実在するかもしれません。そういう人と向き合うこと、付き合うだけでも大変なことですが、そのような人と他の誰かの間に立って、仲直りさせたり、関係性を修復させるのは至難の業です。そのような事をされたご経験は皆さんにはあるでしょうか。

 

しかし、そのようなストレスのレベルが半端ない役目を神様から委ねられたのが預言者エレミヤです。イスラエルの民の所に繰り返し出かけて行って、神様から託された厳しい言葉を彼らに語り、彼らの間違いを指摘し、その後には彼らからひどい扱いを受けたのがエレミヤです。その時代、神様は他にもエゼキエルやイザヤ、ナホムやハバククといった預言者たちを用いられましたが、彼らは国が滅びるほどの大きな罪を犯し続けていたその時代の王や宗教指導者たちや民に神の言葉を伝え、悔い改めて神様に立ち帰るために遣わされました。

 

しかし、傲慢で頑なな王や祭司や民たちは、エレミヤが語る言葉を神の言葉として聞かず、その言葉を煙たがり、悔い改めて神様に立ち帰ろうと決してしません。エレミヤのストレスはかなりの大きさであったと推測します。4章19節に次のようなエレミヤの正直な言葉があります。「わたしの腑よ、腑よ。わたしは悶える。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。」と。腑というのは感情をコントロールする場所を指します。つまり、エレミヤの心はやり場のない苦しい思い、ストレスいっぱいであった事を表しています。彼の血圧は危険レベルにあり、心臓への負担はマックスであったはずです。神様から遣わされた真の預言者の働きは激務であり、過酷であり、孤独なものなのです。神様ご自身に召され、神様が共にいて守ってくださると約束してくださらなければ、その責任を果たし得ない職務なのです。

 

6章10節と11節を読みますと、「誰に向かって語り、警告すれば 聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ、それに耐えることに疲れ果てた。」というエレミヤの嘆きの言葉があります。「彼らの耳は無割礼で耳を傾けることができない」とは、神様との契約を完全に忘れ去っている状態で、それが神様を侮り続けることにつながっています。神様と民の間に立つことに疲れ果てたエレミヤの愚痴です。

 

エレミヤの苦しみ、極度のストレスの原因は、イスラエルの民が神様の言葉を聞かないこと、悔い改めて立ち帰ろうとしないこと、そのために神様の裁きにあって滅びに向かって突き進んでいるという状態にあることのもどかしさだけでなく、自分の無力さを感じたことにあったと思われます。わたしたちも、どんなに時間や努力を惜しまずに頑張っても決して報われないと感じる時が日々の生活の中であり、心が燃え尽きてしまいそうになってしまうことがあります。無気力になった時、自分を見失ってしまうことがあります。そうなると、わたしたちはどうなってしまうでしょうか。心に不満や怒りが沸々と湧き上がってきます。そのような心は幸いな心と言えるでしょうか。言えません。ですから、わたしたち自身がまず神様に立ち帰り、神様の慰めと励ましと希望の言葉に聞かなければならないのです。

 

さて、今朝のみ言葉に戻りましょう。13節から15節を読みます。「『身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、「平和、平和」と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず 嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ わたしが彼らを罰するとき 彼らはつまずく』と主は言われる。」とありますが、イスラエルの罪は、1)利をむさぼること、つまり強欲であること、2)神様と人々を欺くこと、つまり嘘を言って騙したり、惑わすことです。神様との契約を守っていないのに守っていると言い張ったり、隣人を平気で軽んじることです。

 

神様にとっても、エレミヤにとっても許し難かったのは、祭司たちがその手に富をかき集めたこと、自分の利益だけを求めたこと、また預言者たちが偽りの預言をしたことです。それは神様を欺く行為です。14節に、偽の預言者たち、「彼らは、我が民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」とありますが、南ユダ王国に生きる者たちが神様を完全に無視し、神様との平和がまったくないのに、そのために厳しい神様の裁きが刻々と差し迫っているにも関わらず、真実を語らず、耳障りの良いことばかりを言って民を惑わしていると言われ、その無責任さ、その罪は一層重いと神様は言われるのです。

 

次に16節の前半を読みます。「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』」とあります。こどもメッセージでもお話ししましたが、「さまざまな道」とは、「四つ辻(新改訳)、十字路(協会共同訳)、分かれ道(口語訳)」という意味です。目の前にも後ろにも道があり、左右に行ける道が「複数」あります。その分岐点に立って、その一つ一つの道を眺め、幸いを得られる道を探りなさいと神様は招くのです。

 

しかし、この「幸いを得られる道」は「単数」になっています。つまり幸いを得られる道は、一つだけだと言うことです。前に広がる道も、左右に向かうそれぞれの道も、まだ足を踏み入れたことのない未知の世界に通じる道です。左に行けば不幸が待ち受け、右に進めば幸せになれるのか、はたまた前の道はどのようなことが待ち受ける道なのか分かりません。そのように迷う時、わたしたちはどの道を選べば良いのでしょうか。

 

神様は「昔からの道に問いかけてみよ。」と言われます。「昔からの道」とは、神様との契約を忠実に守り、神様から大いなる祝福を受けていた時代を指しています。神様が共に歩んで守り導いてくださった道を振り返ってよく見なさい。主なる神様がいかに真実なるお方であり、どれ程あなたを愛しておられるかを思い出しなさいと招くのです。イスラエルの民は、これまでの歩みの中で何度も神様を裏切り、神様を悲しませてきましたが、神様の愛は絶えず変わることなく、イスラエルは様々な災いから守られてきました。ですから、これまで神様に背を向けて歩んで来たことを神様に謝罪し、神様に立ち帰りなさいと招くのです。

 

神様はイエス・キリストという救い主をわたしたちのもとに遣わしてくださり、このイエス様がわたしたちの罪を十字架上で贖ってくださいました。そのイエス様を神様は死から甦らせ、わたしたちに永遠に生きる道を示してくださいました。イエス様は、ヨハネによる福音書14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」と言われました。イエス・キリストがわたしたちの進むべき道なのです。この道の先に、わたしたちに対する神様の永遠の祝福があるのです。

 

想像してみてください。わたしたちが四つ辻に立つ時、そこに二人の人が横たわっています。一人は生きていて、一人は死んでいます。あなたがどちらの方向に進むべきかを尋ねる時、死んでいる人に尋ねることはせずに、生きておられる人に道を尋ねるのではないでしょうか。その生きておられる方が、イエス・キリストであり、わたしたちの救い主なのです。

 

エレミヤを通して神様が叫ばれる「悔い改めてわたしに立ち帰れ。そうすれば、幸いを与える」と言う言葉に対して、16節後半で「彼らは言った。『そこを歩むことをしない』」と言い、また17節で、「わたしは、『あなたたちのために見張りを立て 耳を澄まして角笛の響きを待て』と言った。しかし、彼らは言った。『耳を澄まして待つことはしない』。」と残念ながら神様の言葉を拒み続ける民がいます。その拒み続ける民の末路は何でしょうか。

 

18節から19節、21節から22節を読んで終わります。「それゆえ、国々よ、聞け。わたしが彼らにしようとすることを知れ。この地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災いをもたらす。それは彼らのたくらみが結んだ実である。彼らがわたしの言葉に耳を傾けず わたしの教えを拒んだからだ。」、「それゆえ、主はこう言われる。『見よ、わたしはこの民につまずきを置く。彼らはそれにつまずく。父も子も共に、隣人も友も皆、滅びる。』主はこう言われる。『見よ、一つの民が北の国から来る。大いなる国が地の果てから奮い立って来る。』」とあります。神様の意志によってイスラエルを裁くバビロニア帝国が来ます。

 

しかし、わたしたちは、今日も生きておられ、愛をもって今日もわたしたちを導いてくださるイエス・キリストの言葉に聴き従いましょう。イエス様が真の幸いに至る道であるからです。