2025.9.24 ヨハネによる福音書1章19節〜28節
ヨハネによる福音書の1章には、神の言が人間の形をとってこの地上に来られたこと、すなわち神が肉体をとって誕生された方がイエスであり、救い主であることが明確に記されています。また、このイエス様は、闇の中を彷徨うわたしたちを照らす世の光として来られ、わたしたちを光の中に招いてくださる救い主として来られたことが記されています。
そのような重要なことが記されている只中で、バプテスマのヨハネが何度も出てきます。そのように出てくるのには、神様のご意志、そして福音書の記者であるヨハネに思惑・目的があったことは確かです。共観福音書と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカによる三つの福音書にもバプテスマのヨハネについて記され、彼がどのような人であったかの情報を得ることができますが、このヨハネによる福音書以上に神様がこのバプテスマのヨハネを遣わされた目的にフォーカスし、彼の存在意義を明確に示している福音書はありません。
バプテスマのヨハネが何故こんなにも頻繁に登場するのかという理由は、当時ローマ帝国の支配下の中で、非常に多くのユダヤ人たちが悶々とした日々を送り、魂の平安と救いを求め、その必要を満たしてくれるのがヨルダン川で活動していたバプテスマのヨハネだと考えたからです。ヨハネを神から遣わされたメシア(神に油注がれた者)と見なし、彼に大きな期待を寄せます。これはイエス様が宣教の表舞台に上がる少し前のことです。
いつの時代にも、普通とは違ったことを言ったり、魅力的なことをする人に人々は注目し、その人の周りに集まります。当時まだ30歳ほどのバプテスマのヨハネの言葉には、様々なストレスを日々抱え、不安の中にいた民衆の心を引き付ける力がありました。これまでの人生を神様抜きに送ってきた間違いを人々に認めさせ、悔い改めさせ、神様に立ち帰らせるほどの言葉の力、カリスマが彼にあったのです。ですから、彼のもとに人々は各地から集まり、彼からバプテスマを受けて、彼の弟子として彼に従う人々がいたのです。
民衆がバプテスマのヨハネに注目したように、エルサレムにいたユダヤたちも彼に注目しました。19節を読みますと、「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わし」たとあります。この「エルサレムにいたユダヤたち」とは、ユダヤ社会の重鎮たち、祭司長や長老たちであったと思われます。また、24節を読みますと、「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。」とあります。ユダヤ教とユダヤ社会全体のことをよく知らないわたしたちには何ら変哲のない言葉に聞こえるかもしれませんが、祭司とレビ人たちはユダヤ教の中ではサドカイ派で、ファリサイ派とは水と油のような関係です。しかし、そのどちらのグループからも遣わされたというのは、バプテスマのヨハネがどれほどユダヤ全体から注目されていた存在であったかが分かることなのです。
19節を読みますと、「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させた」とあります。ここに「さて、ヨハネの証しはこうである。」とありますが、この1章19節から42節までは、バプテスマのヨハネがイエス・キリストについて何と言っているか、何と証ししているかが記されている福音書の中でも重要な部分です。
人々は祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させましたが、20節を読みますと、「彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した。 」とあります。自分はメシアではないとはっきり否定したのです。しかし、「はい、そうですか」とすぐに引き下がれない人たちはヨハネに食い下がります。
21節と22節で、「彼らがまた、『では何ですか。あなたはエリヤですか』と尋ねると、ヨハネは、『違う』と言った。更に、『あなたは、あの預言者なのですか』と尋ねると、『そうではない』と答えた。22そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。』 」と尋ねるのです。ここにいくつかも注目点があります。
「あなたはエリヤですか」と彼らが問うているのは、旧約聖書の最後の書であるマラキ書3章23節に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」とあり、終末の時に再びやってくることが期待され、その再び来る者がメシア的存在として考えられていたからです。しかし、ヨハネは「違う」と否定します。
「あなたは、あの預言者なのですか」とさらに問うているのは、これまた旧約聖書の申命記18章にモーセの言葉があり、彼が15節と18節で、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」と命じていて、「あの預言者」とはモーセのような預言者のことを言っています。しかし、ヨハネは「そうではない」と再度否定します。
期待していた言葉が返ってきませんので、サドカイ派の人々も、ファリサイ派の人々もしびれを切らして、「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」と尋ねるのです。自分は何者であると捉えているのかとヨハネに質問するのです。皆さんは、自分が何者であるかをしっかり捉えておられるでしょうか。何のために生きているのかを把握し、そのために生きているとはっきり言えるでしょうか。
あなたは何者かと問われたヨハネは、23節、「預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」』と。」あります。これは旧約聖書のイザヤ書40章3節を引用し、自分は「荒れ野で叫ぶ『声』である」と言うのです。実際のイザヤ書40章3節は、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と記されています。
このヨハネ福音書1章には、イエス様が言であり、ヨハネは声だとはっきり記されています。言は神の言葉としてそのまま実在することができますが、声はその言葉を表に出すために、人々に聞かせるためにあります。ヨハネが自分のことを「声」というのは、自分は神に仕える存在にすぎず、自分の後に来る神の言葉を証しするために、人々に表すために存在しているというヨハネの謙遜な姿勢を表しているのです。自分は何者であるかをしっかり分かって、その役目を重く受け止めて行おうとしているのがこのヨハネなのです。
ヨハネは、自分の使命を「主の道をまっすぐにすること」と捉えています。主の道をまっすぐにするという意味は、主なる神がこの地上に降りて来られるから、その足取りが守られるように道を整えるということです。つまり、この世に誕生された救い主が神の国の福音を告げ知らせるに当たり、人々に心の準備をさせるためということです。荒れ野は荒れているように、人々の心も荒れています。その荒れた心を整え、永遠の命に至る道が神様によって開かれてゆくので、その前にその道となる部分にある障害物となり得る大小なものを取り除くことがバプテスマのヨハネの使命でした。救い主と民衆がつながるために第一に必要であったことは、民衆が自分たちの犯してきた間違いに気付いて、神様に立ち返るようになることでした。それが「悔い改め」です。これがないと始まらないのです。
さて、自分たちが期待していた存在ではないと分かるや否や、エルサレムから派遣された人々は翻ってバプテスマのヨハネを追及し始めます。25節、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、バプテスマ(洗礼)を授けるのですか」と言い出します。メシアでもないのに何故バプテスマを人々に授けているのか、どういう権限でそう言うことをしているのかという問いです。これはイエス様が宣教活動の中や十字架を前にした裁判の中で祭司長たちから何度も問われた事と同じです。
さてここで、「バプテスマ(洗礼)はキリスト教が発祥ではないのか」と思われるかもしれませんが、実はそうではなく、ユダヤ教の中にはすでにあった儀式で、異教徒が旧約聖書にある真の神を信じ、悔い改めてユダヤ教に改宗する際に行われたそうです。しかし、問題はそれだけではありません。生まれながらにして選民であるユダヤ人にもヨハネがバプテスマを授けていたことはおかしいとユダヤ教に携わる人々は問題視したのです。それが出来るとしたらメシア・救い主だけです。しかし、ヨハネはきっぱりと自分はメシアではないという。メシアでもない人が何故バプテスマを授けるのかと追及するのです。
その投げかけに対してヨハネは26節と27節で、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と返答します。ここにも興味深いことがいくつも記されています。まずヨハネは「わたしは水でバプテスマを授ける」と言います。「水のバプテスマ」とは、悔い改めた人がその悔い改めを表す儀式です。悔い改めは信仰の出発点であって、その先に救い主・神様との関係が始まるのです。
ヨハネは、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方」と言います。「あなたがたの中にいる、あなたたちの知らない方」とは、これまでの旧約聖書にも現れたことのない、神と等しいお方という意味であり、これまでのユダヤの歴史・イスラエルの経験や知識では完全に捉えることができないお方がメシアとしてこの後に来られ、「わたしにはそのお方の履物のひもを解く資格もない」とヨハネは言います。ヨハネ福音書では「知る・知らない」という言葉が頻繁に出てきますが、これは「信じる・信じない」という意味であり、それ以上の深い関係性を表す言葉として用いられます。ヨハネは、「あなたがたはまだ知らないが、あなたがたに出逢い、救い、つながるためにこの後に来られる。その方の履物のひもを解くこともできないほど高貴なメシアがこの後に来られるから、心の準備をせよ」とわたしたちを招くのです。