「主の言葉と呼びかけに応えて生きる人の幸い」 九月第四主日礼拝 宣教 2025年9月28日
エレミヤ書 7章1〜15節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。早いもので、9月も火曜日までで、水曜日から10月に入ります。このまま秋の気候になっていって欲しいと願いつつ、今年の秋を皆さんとご一緒に存分に楽しみたいと願っています。E執事が秋のイベントとして、11月にウォーキングとボーリングのイベントを企画してくださいました。ボーリングをしなくても、楽しく遊んでいる教会の家族の様子を見ているだけでも楽しいと思います。ぜひ今年の秋を楽しむイベントにご参加ください。
また、秋は「食欲の秋」と言われます。暑い夏を過ごす中で食欲不振になって体も弱っているので、秋に美味しいもの食べて元気になりましょうということです。10月から第一と第三日曜の礼拝後の昼食が再開され、食事と交わりができるようになりますので、楽しみにしていただきたいと思います。また、秋は「読書の秋」とも言われます。その理由は、秋は過ごしやすい気候で、ゆっくり読書ができる季節ということだからだそうです。ですので、日々の生活の中で、聖書を読みましょう。水曜日の祈祷会ではヨハネによる福音書に聞いています。日曜朝の教会学校ではヨナ書に聞きます。夕礼拝では使徒言行録から神様の語りかけを聞いています。ぜひ、今年の秋を神様の御言葉・聖書をたくさん読む季節にしてください。
さて、朝の礼拝ではエレミヤ書をシリーズで聞いています。このエレミヤ書は、エジプトから救い出してくださり、乳と蜜の流れる約束の地に入れてくださった神様をイスラエルの民が忘れ、神様の言葉に聞き従うことを止めて神様との契約を守ることをしないで、その土地の虚しく忌まわしい偶像を礼拝するようになってしまい、その結果与えられた土地は荒廃させてしまった民のことが記されています。預言者エレミヤを通して神様から何度も悔い改めなさいと言われても、それをすべて拒絶し、約束の地から追い出されて捕囚の民となって、神様の祝福から転がり落ちてゆく様子が記されていて、読んでいても心が痛む内容です。
しかし、この書に記されていることは、大昔の出来事だけではなく、現代社会に生きるわたしたちもイスラエルの民と同じような間違いを犯していないかと信仰の自己診断をしなさいと導かれる御言葉です。ですので、今朝、救い主イエス・キリストを通して神様から与えられているそれぞれの信仰を自己診断、自己吟味してゆきたいと願っています。ご注意いただきたいのは、これは自分を見つめる機会であって、他の人の粗探しではないという事です。
さて、今朝は7章に聴いてゆきますが、1節から2節を読みましょう。「主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。『主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。』」とあります。神様は、エレミヤにエルサレムの神殿で神の言葉を語れとお命じになります。「呼びかけ」とは民を召集するということであり、「言う」とは民に宣告をするということです。
神様はイスラエルの民に何を語れとエレミヤに命じるのでしょうか。それが3節と4節の言葉です。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」とあります。「お前たちの道と行いを正せ」とは、神様との契約を思い出し、その契約を守りなさいということです。つまり、心から神様に立ち返って、神様との正しい関係性の中に生きなさいというすごく真面目な招きの言葉です。もし神様に立ち帰るならば、約束どおりこのエルサレムに住まわせると神様は言われます。
ここに「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」とあります。学びのために読んだ書物に、この「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と言うのは「おまじない・厄除けの呪文」だとありました。神殿にさえ居れば絶対に大丈夫、自分はすべての災いから守られ、幸いを得ることができると信じ込み、神様を畏れるのではなく、建物である「神殿」を信じる人々が当時多かったというのです。それはかつてエルサレムがアッシリア軍に包囲された時、神殿とエルサレムが奇跡的に守られたことに由来します。
それではわたしたちはどうでしょうか。教会に戻って来て、礼拝をささげていれば憐れみの神様によって災いや不幸から日々守られるから大丈夫、礼拝で慰めや励ましを受け、平安であれば十分だと心のどこかで思い込んでいないでしょうか。教会に来ていれば、献金をしていれば、あるいは礼拝の中で「主よ、主よ、主よ」と言っていれば、自分は大丈夫だと心のどこかで思い込んでいないでしょうか。
しかし、神様は、「それがわたしの心だと本当に思うのか」と問われるのです。そのような思い込みが「神様は憐れみ豊かなお方であるから、都合で教会に戻ることが時々できなくても許してくださるだろう」という気の緩み、信仰の緩みに発展し、主日ごとに教会に帰ってきて、神様の御前にひれ伏し、賛美をささげ、御言葉に聞くことが隔週になったり、月に一度になってゆき、御言葉に聞き従うこと、イエス様と約束したことがどんどん疎かになってしまうのです。ですから、信仰の帯を締め直す必要がわたしたちにあるのです。
神様が預言者エレミヤを通してイスラエルの民に「わたしに立ち帰れ」と繰り返し言うのは、「わたしを畏れなさい。そしてわたしとの契約を守りなさい。そうすれば約束の地で長らえる。」という招きなのです。しかし、イスラエルの民は神様の愛と憐れみだけを当たり前のように受け取って、貪るだけむさぼって、神様のみ言葉に聞き従おうとしないのです。
マタイによる福音書7章21節に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」というイエス様の言葉があります。「主よ、主よ」と口先だけで神様とイエス様を崇めるだけの信仰ではなく、神様の御心を大切にし、その御心を精一杯行うことが重要であるとイエス様はおっしゃいます。口先の信仰ではなく、行動の伴う信仰、アクションが大切なのです。
それでは神様の御心とは一体何でしょうか。その答えが5節と6節に記されています。「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」とあります。「この所で、お前たちの道と行いを正し」というのは、悔い改めて神様に立ち帰り、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさいということです。
「お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず」と具体的に記されていますが、社会の片隅に追いやられている小さく弱くされている人々、助けを必要としている人々、社会から見向きもされない人々をあなたの隣人として迎え入れ、自分のように愛し、神の御前で正義を行いなさいということです。
神を愛し、隣人を愛することは、神様がわたしたちに求めておられる御心なのです。それ以外にも色々と善い行いはありますが、すべての善い行いは、この二つの愛、神様への愛と隣人への愛に根差したものであり、それらは神様の豊かな愛から波及する御心に適った行いになり、神様に用いられるのです。そのように生きる者を神様は忘れることはありません。7節に、「そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」という神様の言葉があります。永遠に過ごすことができる場所が神様によってすでに備えられており、そこにわたしたちは招かれるのです。
けれども、8節から11節には警告が再度されています。「しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。9盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、10わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。11わたしの名によって呼ばれるこの神殿はお前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」とあります。なぜ同じことが繰り返し言われるのでしょうか。その理由は、わたしたちの心が弱いからです。自分の事ばかりを優先的に考え、心が神様から離れてしまうからです。
しかし、神様は、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言う」が、本当に救われていると思ってわたしの前に立つのかと問われています。それはただの思い込みではないか。自分の弱さをひた隠ししていないかと問われているようです。どちらかというと、「自分の事だけでも精一杯。他人の世話までしなさいと言われても自分にはそこまで出来ません」という人が殆どで、その中にわたしも含まれています。
しかし、そもそも自分の力に頼るのではなく、主なる神様により頼まなければならない存在がわたしたちなのです。けれども、イスラエルの民は、神様を畏れず、神様を忘れ、神様のみ言葉に従わなかったから堕落し、神様の愛と祝福から転がり落ちていったのです。それでは、わたしたちも同じように滅びへの坂を転がり落ちていっても良いでしょうか。良いわけがありません。良いわけがないので、神様は預言者エレミヤを通して「わたしに立ち帰り、わたしの言葉に従いなさい」とイスラエルの民を招かれ、イエス・キリストを通してわたしたちを神様の御許へと招かれるのです。
神様は、イスラエルの民に対して歴史の一部を振り返らせます。12節です。「シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。 」とあります。シロという場所は神様が最初に聖なる場所として選ばれ、そこに「契約の箱」が置かれ、祭壇が作られ、神様に礼拝が捧げられた所でしたが、祭司エリの息子たちが神様の目に悪を行ったのでその場所は滅ぼされました。
神様は、預言者エレミヤを通して、イスラエルの民たちに「わたしに立ち帰って、幸いを得よ」と招き、今朝、わたしたちの罪を十字架上で贖ってくださった救い主イエス・キリストを通してわたしたちを「わたしに立ち帰って、わたしの言葉であるイエスに聞き従い、幸いを得なさい。」と招かれるのです。13節以降は読みませんが、主の言葉と呼びかけに応えて生きる人は幸いを得、そうでない人は闇の中を彷徨い続けることになります。神様の愛、主の恵みを当たり前のように受けるのではなく、イエス様を信じ、謙遜になり、感謝と喜びをもって恵みのうちを日々歩ませていただきましょう。恵みに応えましょう。