「目を覚まして、主なる神を知りなさい」 十月第一主日礼拝 宣教 2025年10月5日
エレミヤ書 9章22〜23節(他の訳では23〜24節) 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。2025年も10月に入りました。早いもので、今年も残すところあと3ヶ月。また2025年度も下半期に入りました。そのような中で、一日一日を大切に歩ませていただきたいと願います。特に、神様とイエス様に感謝と賛美をささげる日として主の日を大切にしたいと心から願います。
何故かと申しますと、わたしたちはいつまでこの教会で皆さんと共に礼拝をおささげできるか分からないからです。皆さんはそのような事をお考えになられたことがあるでしょうか。この教会で神様に礼拝をおささげできる機会はあと何回あるのか。あと何度教会に戻ることができて、賛美と祈りをささげ、交わりを持つことができるのか。当たり前のようで当たり前でない。毎日が、そして七日ごとの主の日が恵みの日です。この恵みの日があと何日あるのか分かりませんが、与えられている間はずっと大切にしたいとわたしは願います。
さて、今朝はエレミヤ書9章の22節と23節を集中的に聴いてまいりますが、わたしたちの教会で用いる新共同訳聖書は22節と23節なのですが、他の聖書訳、例えば新改訳聖書や口語訳聖書では、23節と24節になっていますので、混乱しないようお気をつけください。
さて、今回はエレミヤ書の9章から神様の語りかけを聞いてまいりますが、実は8章4節から10章25節が一括りとなっており、「イスラエルの民の背信とそれに対する神様の裁き」がテーマとなっています。主なる神様が預言者エレミヤを通して「神に立ち帰りなさい」と繰り返し叫んでも、頑なな民は神様の言葉を拒否し続けます。神様の心を無視し続けます。問題点を鋭く指摘されても、悔い改めるどころか開き直って神様に立ち帰ろうとしません。
それどころか、神様ではなく、その地に土着している偶像を礼拝する者たちも存在していました。また、神様ではなく、神様の神殿や律法や割礼に固執しすぎて、それらを心の拠り所としている、つまり信仰的な勘違いをしている人々が多かったのです。そのような思い込みや勘違いや偽りから解放されて神様に立ち帰れと神様は言い続けるのですが、頑なな民は神様に立ち帰ろうとしません。神様にはもどかしさがあったのではないかと思われます。
ご自分の民に対する神様のもどかしさが8章4節以降に記されていますので読みたいと思います。神様は預言者エレミヤにこう言われるのです。4節から7節。「彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背いているのか。偽りに固執して立ち帰ることを拒む。耳を傾けて聞いてみたが正直に語ろうとしない。自分の悪を悔いる者もなく、『わたしは何ということをしたのか』と言う者もない。馬が戦場に突進するようにそれぞれ自分の道を去って行く。空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。」とあります。
8節と9節も興味深い主の言葉です。「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っているというのか。」と。「書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした」というのは、神様に仕える人々が神様の言葉を自分たちの都合の良いように解釈し、神様の御心から遠くかけ離れたことばかりをしていたということを表しています。
その例が、10節から12節にあります。「それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に渡し、彼らの畑を征服する者に渡す。身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず 嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、彼らが罰せられるとき、彼らはつまずくと主は言われる。」とあります。
続く9章も神様の嘆きが続きます。すべての民は「姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。」と1節で言われたり、「彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない」と2節言われたり、「欺きに欺きを重ね、わたしを知ることを拒む」と主は5節で言われます。7・8節では「彼らの舌は人を殺す矢、その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していても、その心の中では、陥れようとたくらんでいる。これらのことをわたしは罰せずにいられようかと主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。」と言われるのです。11節で、神様は「何故、この地は滅びたのか。」と問われ、続く12節で「それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。」と自ら答えておられるのです。
時間がありませんので10章全体を読むことはしませんが、そこには偶像礼拝に走る民たちの間違いを指摘するエレミヤの言葉があります。エレミヤの言葉は、神様の言葉です。3節から5節を読みます。「もろもろの民が恐れるものは空しいもの。森から切り出された木片、木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも、幸いをもたらすこともできない。」と。エレミヤは神様のことを「真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐ええない。」と10節で言い、この神を畏れなさいと訴え続けるのです。
もしわたしたちが神様以外のものを神としているならば、あるいはその間違いにすでに気付いているのであれば、わたしたちを滅ぼす権威を持たれる神様を畏れて、悔い改めて、神様に立ち帰る必要があります。この問題を先送りにしないで、すぐさま神様に立ち帰らないと、滅んでゆく道をわたしたちはずるずると歩み続けることになります。わたしたちの殆どは、そのことを頭では何となく分かっているのです。このままの状態では宜しくない、今は自力で頑張って生活を何とか維持できているけれども、このまま突き進めれば、いつかどこかで空中分解するかもしれないと不安や恐れを心のどこかで感じながら生きているのです。
しかしながら、それでは、神様に立ち帰らせないわたしたちの原因はいったい何でしょうか。悔い改めて神様に立ち帰ることを妨げているもの、それはプライド、誇りだと神様は言われます。エレミヤ書9章22節で、「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。」とあります。わたしたちが誇る時の元手、根拠、より頼んでいるのは、自分の知恵、力(強さ)、富(お金)だと神様は言われます。自分で勉強して、努力して、忍耐して得る知恵や強さや富を誇り、喜び、満足感・優越感を持つのです。しかし、世界には、勉強したくても勉強できない、努力したくてもそれができない、不平等と貧しさの中に生きる人も大勢いるのです。
神様が与えてくださった豊かさの中に生きてきたイスラエルの民は傲慢になり、知恵も、強さも、富も、自分の力で得たかのように思い込み、心が神様から離れました。神殿にいれば、律法を守ってさえいれば、献金をささげていれば自分と家族は大丈夫と勘違いをしていました。わたしたちもそうかもしれません。しかし、わたしたちが手にする命も、体も、健康も、時間も、手にするものも、すべては神様が与えてくださったものばかりなのです。
神様は、23節で、「むしろ、誇る者はこの事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う」と言われます。イスラエルの民が目を覚まして知るべきこと、それはアブラハム、イサク、ヤコブの神と自分たちは契約の関係にあるという恵みです。神様の声に聞き従い、神様との約束を守る民とされていることを喜ぶ、その恵みに応えて生きてゆくことであって、背を向けて生きることではありません。
今日を生きるわたしたちに誇るべき事があるとしたら、それは神様の愛と憐れみのうちに今日も生かされているという真実です。わたしたちが平安と希望という救いの中に生かされているのは、只々イエス・キリストの十字架のゆえであるのです。そのことを喜び、感謝し、主の愛と恵みに応えて日々歩むことが神様がわたしたちに望んでおられることなのです。
神様は、背信を続ける民に対して、「わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う。その事をわたしは喜ぶ。」と言われます。神様がわたしたちの主であり、イエス様が救い主です。この地上に慈しみと正義と恵みの業を行なってくださる唯一の神です。わたしたちを滅びに向かう道から救い出すために神様はイエス様をこの地上にお遣わしくださり、イエス様が十字架上で贖いの血潮を流し、その命を捨ててくださったので、わたしたちは神様から永遠に続く新しい命が与えられたのです。神様はそのことを「喜ぶ」と言われます。
それでは、神様の慈しみと正義、イエス様の恵みの中に生かされているわたしたちが「喜び」としたい、選び取りたい行動とは何でしょうか。それは、第一に神様を愛すること、第二に隣人を愛すること、第三にわたしたちが互いに愛し合い、支え合うこと、そして神様の愛を知らない人たちにイエス様を分かち合って、イエス様が救い主であることを知ってもらうことです。自分のためだけに生きる誘惑にも遭いますが、イエス様を信じて従う者として、イエス様から目を逸らさずに、イエス様が生きられたように生きることができるように、神様の励ましを日々祈り求めてまいりましょう。主はいつも共にいて、恵みをわたしたちに与えてくださいます。