2025.10.8 ヨハネによる福音書1章35節〜42節
今ご一緒に聴いていますヨハネ福音書1章は、19節から51節までは、連続する四日の間に起こった出来事が記されている非常に珍しく、興味深い箇所です。この部分は、バプテスマのヨハネの証しを起点に、イエス様に出逢ってゆく人々がどのようにイエス様に従うようになり、弟子にされていったのかというきっかけ、出来事が記されています。
まず第一日目ですが、ヨルダン川で人々に悔い改めて神に立ち帰ることを訴え、水のバプテスマを授けていたバプテスマのヨハネが、祭司長や長老たちにエルサレムから遣わされて来た祭司たちから「あなたは、どなたですか。待望のメシアですか。」と質問されます。しかし、バプテスマのヨハネは、「わたしはメシアでも、エリアでも、モーセでもなく、神から命じられて、『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ『声』である。わたしの後に来られる方がメシアである」と証しすることから始まります。(19〜28節)
第二日目、この証しの翌日に、自分の方へ向かってこられるイエス様の姿を見たバプテスマのヨハネは聖霊に満たされて、自分の弟子たちに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。この方こそ神の子である。」とイエス様を証しした様子が記されています。(29〜34節) そして今回の箇所が第三日目となり、次回の学びの箇所が第四日目の出来事となります。たった四日の間に、イエス様をメシア・救い主と信じて従う弟子たちが誕生してゆくと言いましょうか、イエス様によって起こされて行きます。とても興味深い内容です。
さて、35節と36節に「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。」とあります。バプテスマのヨハネには多数の弟子たちがいたと思われますが、ここでは「二人の弟子と一緒にいた。」とあり、40節によりますと、そのうちの一人は「アンデレ」という人であることは分かります、しかし、もう一人の名前は分かりません。けれども、多くの聖書学者・神学者たちはこの福音書を記したヨハネだと考えています。わたしも同じ考えです。
この箇所には、この二人の弟子といる時にヨハネは「歩いておられるイエスを見た」とあります。ここで興味深いのは、前日はイエス様からヨハネの方へいらしたということで、今回はヨハネたちが見えるほどの近くをイエス様は歩いていたということです。つまり、イエス様はヨハネたちの近くにいたということ、それは今日においても、わたしたちの近くにイエス様はいつもおられるということです。そのイエス様を、わたしたちが信仰の目で「見る」こと、あるいは信仰をもってイエス様を「探す」こと、あるいは誰かにイエス様を「見て」と指し示す機会、主の愛と恵みを分かち合う機会があるという事です。
わたしたちは日々の忙しさの中で、イエス様がいつも近くにいてくださることを忘れてしまい、それ故に不安になったり、迷ったり、自分の力で物事を何とか解決しようとすることを繰り返します。しかしそういう事がないように、いつも近くにおられるイエス様を心の目、信仰の目で見ること、探すことが重要です。イエス様を近くに感じて喜ぶことができれば、サタンの誘惑に陥ることはなくなります。イエス様を「見る」ことは大切です。
さて、イエス様を見つけたバプテスマのヨハネは、弟子たちに「見よ、神の小羊だ」と言って、イエス様を指し示したとあります。前回と同じく、イエス様を「神の小羊」と証しします。「神の小羊」とは、わたしたちの贖罪のために、救いのために、神殿で屠られて犠牲になる神様への献げものです。この献げものは、わたしたち人間が準備したものではなく、わたしたちを愛し、わたしたちに神の子として戻ってきてほしいと願っておられる神様が備えてくださった贖いの小羊です。ですから、「神の小羊」とヨハネは呼びます。
続く37節を読みますと、ヨハネの「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 」とあります。とても簡素に記されていますが、この言葉通りに行動することはかなり難しいと考えます。しかし、決断の難しさを簡単にしたのは、自分たちの師であるヨハネの言葉があったから、信頼のおける人の言葉があったからです。わたしたちも全幅の信頼を置く人の言葉はそのまま聞くと思います。そこには堅い信頼関係があるからです。
この弟子たちは、バプテスマのヨハネを信頼していたので、その言葉を信じて、今まで従ってきたヨハネを離れて、イエス様に従うようになったのです。とても凄い事です。わたしたちには信頼できる人、信頼を置く人がどれくらい周りにいるでしょうか。幸いな人というのは、より多くの人と信頼関係を持っている人だと思います。相互関係が良好な人です。ここで大切なのは、どれだけ信頼できる人たちが自分にいるかではなくて、自分が人々に信頼されてゆくように努める事です。日頃の誠実さが求められます。
さて、背後から自分に付いてくる人の気配をイエス様は感じ取られたのでしょう。38節を読みますと、「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」とあります。興味深いのは、この「何を求めているのか」というイエス様の言葉が、ヨハネによる福音書に初めて出てくるイエス様ご自身の言葉であるということです。「何を求めているのか」というギリシャ語は、「何を探しているのか」と訳せる言葉です。他にもサブテーマはありますが、「あなたはわたしに何を求めているのか」というイエス様からの問いかけが、このヨハネによる福音書のテーマであると思います。
わたしたちは、これまでの人生でも、現在の歩みの中でも、様々なものを求めてきましたし、求めています。様々なものを探しながら今も生きています。それが何かを具体的に言えばきりがありません。しかしそういう探求の中で、わたしたちは目がくらんだり、迷ったり、焦ったり、手にできないと不安になったり、怒ったり、虚しさを感じたりします。心底疲れるわけです。心に満たされない気持ち、飢え乾きを感じながら生きるわけです。
しかし、そのようなわたしたちの心情を知っておられるイエス様は、「あなたは何を探し求めているのですか。あなたが必要だと思っているのは何ですか。」と優しく尋ねてくださいます。しかし、根本的な問題はわたしたちにあります。わたしたちは自分の欲を満たす「もの」であったり、心を潤し、満たしてくれることを「誰か」に求めて期待します。しかし、ものは時が経てば古くなります。人からは十分なものを受け続けることはできません。不可能です。しかし、イエス様は二人に「何を求めているのか」と尋ねるのです。その理由は、わたしたちが探し求めているものを与え、わたしたちの心の満たす力がイエス様にあるからです。イエス様は、わたしたちがそれぞれに必要なものをよくご存知であるだけでなく、わたしたちにそれぞれ最も必要なものを与えることができるお方です。
バプテスマのヨハネは、そのことをイエス様に見て知っていたのです。ですから、「これからはあのお方に従ってゆきなさい」と自分の弟子たちを促し、送り出すのです。もちろん、ヨハネのもとに残った人たちもいたことでしょう。しかし、ここに出てくる二人は、信頼するヨハネの言葉に押し出されて、イエス様に従ってゆくのです。
38節です。イエス様から「何を求めているのか」と唐突に尋ねられた二人は動転したのでしょう。イエス様のことを「ラビ(先生)」と呼び、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます。実に面白い質問ですが、ここにも真意があると思います。この「どこに泊まっているか」というギリシャ語の言語は「どこに留まっているか」です。この「留まる」という言葉は、このヨハネ福音書では40回用いられているとても重要な言葉です。
ちょっと込み入った話になりますが、ヨハネ15章を読みますと、この「留まる」という言葉が「つながる」とも訳され、この二つが同時15章に出てきます。ですから、二人がイエス様に「どこに泊まっているのですか」と尋ねたというのは、「あなたは誰とつながっているのですか」という問いであり、「もしあなたが神様とつながっている・神様に留まっておられるならば、神様とどのような関係にあるのですか」という問いかけになります。その問いかけに対して、イエス様は、15章でもはっきりと「わたしは父なる神とつながっている。だからあなたもわたしにつながりなさい。神様の愛に留まり続けなさい」と弟子たちに言われ、そのような豊かな関係性にわたしたちをも招いてくださるのです。
「どこに泊まっておられるのですか」と言う問いに対してイエス様は、39節で、「来なさい。そうすれば分かる。」と言われます。ここにイエス様の招きがあります。もし知りたかったら、もし探し求めているものがあるならば、まずイエス様のもとに来るということ。そうすれば「分かる」とイエス様は言われます。わたしたちも教会へ招かれています。祈祷会や礼拝に招かれています。この招きに応えてゆく中でイエス様がどのようなお方であり、神様はどのようなお方であるか分かるだけでなく、自分を知る事ができます。
39節を読みますと、「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。」とあります。「イエスのもとに泊まった」とは、夕方4時からずっとイエス様の言葉を聞いたり、いろいろと質問したりして、語り合ったという事で、一緒に食事もしたでしょう。そのような時間をイエス様と共に過ごす中で、彼らは劇的に変えられてゆくのです。ローマ書10章17節に、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とありますが、イエス様を救い主と信じて従う者となり、イエス様の弟子とされてゆくスタートは、イエス様の言葉に聴くことです。聴き続ける中で日々新しくされてゆき、これまでずっと探し求めてきた幸い、平安と喜びと希望が与えられ、イエス様を「ラビ」と呼んでいた人が、「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った」というように変えられ、その喜びと感動を兄弟シモンに伝え、彼をイエス様のところに連れてゆくのです。 シモンに関しては、次回の最初でお話しします。