ヨハネ(8) 主イエスの最初のしるし

2025.10.22 ヨハネによる福音書2章1節〜12節

ヨハネによる福音書の第二章に入りますが、この章には2つの象徴的な出来事が記されています。一つはガリラヤのカナでイエス様が行われた「最初のしるし」で、もう一つはエルサレムで行われていた過越祭の時にイエス様が商売人たちを神殿から追い出すという衝撃的な出来事です。今回は、その最初の「しるし」について共に聴いてまいります。

まず、最初に触れたいのは、2章11節にある、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」という言葉です。つまり、今回の1節から10節には、イエス様がその公生涯の中で最初になされた「しるし」が記されています。福音書の記者ヨハネは、イエス様がその「しるし」を行って、「その栄光を現された」と記しますが、「栄光を現された」とは、イエス様が神様から遣わされた救い主・メシアとして、弟子たちや人々の前で「しるし」を行い、その御力を示したという意味です。

このヨハネによる福音書には、「しるし」という言葉が今回の11節を含めて、15回用いられています。そしてこの言葉が最後に用いられているのが20章30節ですが、その30節と31節に以下のように記されています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがた(福音書の読者たち)がイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とあります。

これは、この福音書が記された「目的」を示す言葉ですが、わたしたちがイエス様を救い主と信じて従うために、イエス様は神様と聖霊と協働して数々の「しるし」を行われたと理解することが重要です。ヨハネ3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、弟子や人々の前でイエス様が「しるし」が行われたのは、わたしたちに対する神様とご自分の愛をはっきりと示すためであって、わたしたちに永遠の命を得させるためであったと理解しながら、そのような視点を持ちながら、この福音書に記されているイエス様の数々の「しるし」を読むことが重要であると考えます。

ヨハネ福音書2章1節と2節に、「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」とあります。まず、この「三日目に」という言葉の意味を、1章から四日連続した出来事から「三日目」と理解すべきなのか、あるいは他に意味があるのか、このことには諸説があって、それらを丁寧にお話しする時間がありません。しかし、学びの準備のために数々の注解書を読んでゆく中で最も興味深かった一つの可能性をこれから分かち合いたいと思います。

福音書の記者ヨハネが記すように、今回の「しるし」がイエス様の最初の「しるし」であれば、最後の「しるし」が当然あるわけで、それが何であるのかという流れになります。そして、その最後の「しるし」こそが、イエス様の受難、十字架の贖いの死、そして三日目の甦り・復活となります。すでにお気付きのように、イエス様が十字架上で死なれ、墓に葬られ、甦られたのは死から「三日目」です。ヨハネは、最初の「しるし」から最後の「しるし」までをわたしたちの救いのために神様とイエス様と聖霊の愛の業を一括りにするために、1節で「三日目に」とまず記した、そういう手法を用いたと考えることもできると複数の聖書神学者は考察し、わたしは驚きました。そのような解釈が正解か、間違っているのかを学ぶ必要がありますが、一つの考察として知っておくのも良いと思います。

さて、「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」とあります。カナという町は、前章の最後に登場したイエス様の弟子ナタナエルの故郷です。その町で「婚礼があった」とあります。パレスチナ、およびユダヤ社会において「婚礼」は重大なイベントで、婚礼の案内はだいぶ前から町全体に知らされ、町全体で喜び祝うことが慣例であったそうです。

また、ユダヤ教においては、救い主・メシアが来られた時かのように、みんなで喜び祝うことが結婚式としてなされたそうで、「婚礼」は長い時で1週間続いたそうです。ですから、「婚礼」は町あげての大きなイベントで、盛大に祝うために近隣の町からも参加者や応援に来る者があったようです。その「婚礼」の応援者として、イエス様の母マリアもそこにおり、イエス様とその弟子たちも婚礼に招かれました。しかし、「婚礼」の主催者側・花婿側の負担は大きかったと推測します。一族の威信をかけた重大なイベントです。

しかし、そのような盛大なイベントであるにも関わらず、3節には「ぶどう酒が足りなくなった」とあります。どうしてこのような不手際が生じてしまったのか分かりませんが、とにかく祝いの酒、喜びを象徴するぶどう酒がもうすぐで底をつく状態になってしまったのです。花婿側は慌てふためいたはずです。そこで、どういうわけか、イエス様の母マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言いに来るのです。彼女はイエス様ならば何かしらの打開策を考えてくれる、どうにかしてくれると考えての情報共有であったかもしれません。あるいは、イエス様に弟子たちを酒屋へ使わしてぶどう酒を調達して欲しいという意味合いがあったのかもしれません。

聖書には母マリアの動機は記されていないので分かりませんが、ここで最も驚くべきはイエス様の母マリアに対する応答です。4節に、「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』 」とあります。この言葉に注目点が二つあります。一つは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉と、もう一つは「わたしの時はまだ来ていません」という言葉です。

まず、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉ですが、自分の母親に対して「婦人よ」というのは、あまりにも冷たく感じますが、このヨハネによる福音書では、イエス様は女性たちのことを一貫して「婦人」と呼びます。サマリアの女(4:21)にも、姦淫した女(8:10)にも、マグダラのマリア(20:15)にもそうです。イエス様が十字架に架けられている時も、母(19:26)を「婦人」と呼び、彼女の世話を弟子に託します。

「わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉は、ギリシャ語原文では、「わたしとあなたにはどんな関わりがあるのですか」です。これは「わたしとあなたの共通点は何ですか」という問いでもあります。二人の親子関係は明らかですが、イエス様はその関係性を重要視されません。他人の女性の願いは聞かないけれども、自分の母親だから願いを聞くという、親だからといって人々の前で特別扱いをイエス様はしない、一部の人だけをえこひいきされないのです。すべての人が神様の愛を平等に受け取ることをイエス様は最優先に考え、皆が神様の愛を受け取り、救われるために「しるし」をなさるのです。

もう一つの視点をお話しします。ヨハネ福音書に見られるイエス様の特有な姿勢ですが、イエス様は能動的に動かれる救い主としてこの福音書には記録されています。受動的な救い主ではなく、つまり人から何か依頼されたり、促されて初めて動くという消極的な行動はなさいません。1章でも、バプテスマのヨハネのもとに行ったのもイエス様からですし、イエス様が弟子たちを招かれる時も、彼らを最初にご覧になられたということが記され、これからもそのように積極的に動かれるイエス様が福音書には記録されています。

イエス様がここで母に「わたしとあなたにはどんな関わりがあるのですか」と言われたのは、マリアとの親子関係よりも、ご自分をこの地上に派遣された父なる神様との関係性を重視し、わたしはその父なる神の御心を行う者であることを言われていると思われます。他の角度から言いますと、イエス様は神様の権威・影響力のもとに御心を行う者であって、母親の影響力のもとにあるのではないということを示しているのだと思われます。

おそらく、母マリアはイエス様の言葉の真意を理解したのだと思います。そして期待したのだと思います。5節で、「母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」とあります。イエスが神様の御心のままに何かを行おうと考え、「あなたがたに何かを命じたら、彼の言うとおりに従って欲しい」と召し使いたちに依頼するのです。母マリアには、イエス様がこの時と場所で御心に適った大きな事主の御業をなしてくださるという信頼と期待があったと思われます。

さて、次に「わたしの時はまだ来ていません」というイエス様の言葉に注目します。「わたしの時」とは、イエス様が十字架に架けられて、わたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださる時という大きな意味があります。イエス様は死を目前に弟子たちと最後の食事をされた時、ぶどう酒を弟子たちに分け与え、「この(ぶどう酒の)杯はあなたがたのために流される、わたしの血による新しい(神様との)契約である」とルカ22章20節などで言われました。このぶどうの酒は、婚宴のぶどう酒、喜びの酒よりも、すべての人に罪の赦しと救いをもたらす神様の愛を最大限に表すもので、そのぶどう酒を与える時はまだ来ていないとイエス様はここで言われるのです。

さて、婚礼の場に祝い酒が無くなるということは、その場が喜びの場から不満の場になってしまうということになり、主催者の花婿側にとっては不名誉なことです。あってはならない失態です。しかし、面白いことが6節以下に記されています。「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」とあります。イエス様が動かれるのです。

この石の水がめは、「清めに用いる」と使用目的が記されています。婚礼に集った客人たちが席に着く前に手足を洗って清めるために使用する水を溜めるかめです。清めのための水はすべてなくなり、かめは空になりました。しかし、イエス様はご自分から動かれて、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と召し使いたちに命じます。

1メトレテスは約40ℓですから、80ℓから120ℓの水が入るかめが6つあった。つまり480ℓから720ℓの水が入る石の水がめがあったということです。ぶどう酒が底をつくという危機的状況を把握していた召し使いたちは、イエス様の言葉に従い、一心不乱に水がめを水で満たしたと思われます。それ以外に危機を脱する手段はなかったからです。

8節から10節です。イエス様は次に、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」とあります。イエス様のぶどう酒は最高級だったのです。

イエス様が最初になされた「しるし」を目の当たりにしたのは、水をかめに懸命に入れた召し使いたちでした。イエス様の力を彼らは体験したのです。宴会の世話役や花婿側の人々の面目はイエス様によって保たれましたが、この最初の「しるし」で重要なのは、婚宴の場にいた人々が喜びで満たされるためにイエス様が水をぶどう酒に変えられたことです。それはイエス様が最後の「しるし」としてご自分の血潮を十字架上で流された時、イエス様の血は贖いの血潮に変わり、その血潮によってわたしたちの罪は清められ、このイエス様を救い主・キリストと信じる者に罪の赦しと救いと永遠の命を与え、わたしたちを神様の愛と喜びと平安と希望で満たされるということにつながっているということです。

つまりこの2章の最初の「しるし」で祝福の先取り、救いの先取りがすでになされているということだと思います。聖書では「7」が完全数です。しかし、かめは6つだけした。あと一つ、7つ目のかめというのは、イエス様ご自身であって、イエス様がそのかめをご自分の十字架の血潮で満たされたと考えることもできます。そして、イエス様が弟子たちに命じて、神様との新しい契約を結ぶ者たちに喜びのぶどう酒が振る舞われるのだと思います。「良いぶどう酒」を喜ぶという具体例は、イエス様の十字架の死はわたしのためにあったという聖書に記されていることを真実と信じ、喜び、感謝することなのです。

11節に、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とありますが、ペトロたちがここでやっと信じたということではなく、確かに不十分ながらの信仰であるけれども、イエス様と共に時間を過ごす中で、「しるし」を目撃する中で確かな信仰になっていったということで、わたしたちもイエス様と時間を過ごす中で信仰が確かな恵みへと変えられてゆくのです。

最後に12節、「この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。」とあります。イエス様は母マリアや兄妹たちを邪険にすることはありません。イエス様は母、兄妹、弟子たちを大切にされることがここに記されています。しかし、イエス様は神様の御心を行うことを第一とされることを覚えましょう。