理不尽な扱いを受けても、なお主に従う

「理不尽な扱いを受けても、なお主に従う」十一月第一主日礼拝 宣教 2025年11月2日

 エレミヤ書 32章1〜5節(37章)     牧師 河野信一郎     

 

おはようございます。早いもので、今年も11月に入りました。そのような中、今月最初の日曜日を皆さんとご一緒に神様におささげすることができて感謝です。

 

パソコン関係の不具合によって2週間前から礼拝のライブ配信ができていませんでしたが、礼拝に出席できない方々のために配信をしなければという強い責任感を持たれ、時間と労力をささげて復旧に取り組んでくださった兄弟がおられます。他にも教会の活動が滞らないように陰で働いてくださる方々、奏楽の練習に勤しんでくださる方々が与えられていて感謝です。大久保教会が主イエス様の言葉に聞き従い、この地に福音を伝える使命に生き続けるためには、この教会につながる皆さんの愛と祈りと献金による協力が必要です。この教会がさらに祝福され、主の御用のために、何よりも神様の愛を必要とされている方々との出会いの中で仕える教会としてさらに豊かに用いられますように引き続きお祈りください。

 

さて、今年の旧約聖書シリーズとして9月からエレミヤ書に聴いてゆきますが、今朝は32章1節から5節をテキストに、「理不尽な扱いを受けても、それでもなお主なる神様の言葉に聞き従い、神様の愛のうちに生きましょう!」というテーマでメッセージをさせて頂こうと願っていますが、皆さんは、日々の生活の中で、誰からか不当な扱い、理不尽な扱いを受けてはいないでしょうか。すべての人が互いを慈しみ、共に喜びと感謝をもって生きられれば最高なのですが、この世は罪と悪に満ちた世界ですから、わたしたちは不当な扱いを周りの人々や行政や国から受けることが多々あるわけで、それによって大いに憤ったり、傷ついたり、苦悩したり、生きる気力を失うことがあるのです。それはいつの時代も同じです。

 

このメッセージを準備する中で、わたしも自分なりに理不尽さを感じるケースを考えましたが、いじめ、様々な差別、八つ当たり、逆恨み、ハラスメントなどを思い浮かべましたが、先日、「500人に聞いた仕事で理不尽と感じる瞬間ランキング」という興味深い記事を読みました。それはアンケート調査ですが、「仕事で理不尽さを感じたことがあるか」という問いに「よくある」、「たまにある」と答えた人は83.2%の416人で、そのうちの75人が「評価が不公平すぎる」、64人が「自分は悪くないのに怒られる」、44人が「仕事量に偏りがありすぎる」、38人が「えこひいきがある」、23人が「ノルマ・仕事の量が多すぎる」、22人が「聞くたびに指示が変わる」、19人が「感情的に怒る上司・同僚がいる」という答えでした。

 

そのような理不尽さにイライラした時の対処法というランキングもあって、これは日本人特有なのかもしれませんが、252人が「我慢して受け流す」、97人が「上司・同僚に相談する」、66人が「反論する」、40人が「愚痴などで気持ちを吐き出す」、17人が「相手に謝罪する」、14人が「気分転換を試みる」、同じく14人が「退職・異動で環境を変える」と答えたそうです。この中で、「相手に謝罪する」という摩訶不思議な答えがあります。これを深掘りしますと、「面倒だから謝っておく」という30代男性、「謙虚に振る舞って、面倒なことを避ける」という40代女性、「丸く収めるため、とりあえず言い訳せずに謝っておく」という50代女性の答えが紹介されていました。わたしは、「え〜、そうか〜」と驚きましたが、皆さんの理不尽さに対するストレス解消法はどのようなものでしょうか。

 

今ご紹介したものは職場という世界の中で繰り返される問題ですが、家庭や家族などの人との関わり合いの中で繰り返されることでもあると思います。これが国家レベルであれば、それはもう最悪の状況ですが、そういうことが預言者エレミヤの身にも起こったのです。エレミヤ書32章1節と2節前半をご覧ください。「主からエレミヤに臨んだ言葉。ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドレツァルの第十八年のことであった。そのとき、バビロンの王の軍隊がエルサレムを包囲していた。」とあります。これは歴史的には紀元前587年、バビロン軍が前の年からエルサレムに攻め込んできて、いよいよ陥落させられる直前の状況です。

 

そのような中、2節後半を読みますと、「預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されていた。」とあります。なぜエレミヤが拘留されたのかという経緯・理由が続く3節から5節に記されていますので読んでみましょう。「ユダの王ゼデキヤが、『なぜ、お前はこんなことを預言するのか』と言って、彼を拘留したのである。エレミヤの預言はこうである。『主はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。ユダの王ゼデキヤはカルデア人の手から逃げることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、王の前に引き出されて直接尋問される。ゼデキヤはバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう、と主は言われる。お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない。』」とあります。

 

つまり、エレミヤは王をはじめ、エルサレムに生きるユダヤ人たちの都合の悪い言葉、主なる神様の真実な言葉・裁きの言葉をストレートに語ったので、王たちから国レベルの理不尽な扱いを受けることになったのです。もし自分に非がある行為・問題であれば、人からたしなめられても、それは理不尽な扱いではありません。しかし、人や物事に対して誠心誠意向き合っていても、何か妬まれたり、疎まれたり、批判されたりしたら、それは不当な扱い、理不尽な扱いと言って正当性を主張しても良いはずです。エレミヤの場合は、どうであったのでしょうか。32章6節から15節を読みますと、拘留されているエレミヤに親戚が訪ねてきますので、緩やかな拘束・拘留であったことが分かりますが、それでも不当な扱いです。

 

今回のエレミヤの逮捕と拘留についてもっと詳しく記録されているのは37章ですので、それを読みたいと思います。まず1節と2節に、「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである。王も家来も国の民も、主が預言者エレミヤによって告げられた主の言葉に聞き従わなかった。」とあります。エレミヤとゼデキヤ、どちらに非があるでしょうか。紛れもなく、神の言葉を拒絶し続けたゼデキヤ王と家臣と国民です。

 

3節から4節読んでゆきましょう。「ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと祭司であるマアセヤの子ツェファンヤとを預言者エレミヤのもとに遣わして、『どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい』と頼んだ。エレミヤはまだ投獄されておらず、人々の間で出入りしていた。」とあります。ゼデキヤ王たちは自分たちに問題があるのに、神様に対して罪を悔い改めることなく、「我々のために神様にご加護を祈ってほしい」と頼むのです。

 

5節から10節まで。「折しも、ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来た。エルサレムを包囲していたカルデア軍はこの知らせを聞いて、エルサレムから撤退した。このとき、主の言葉が預言者エレミヤに臨んだ。『イスラエルの神なる主はこう言われる。わたしの言葉を求めて、お前たちを遣わしたユダの王にこう言うがよい。お前たちを救援しようと出動したファラオの軍隊は、自分の国エジプトへ帰って行く。カルデア軍が再び来て、この都を攻撃し、占領し火を放つ。主はこう言われる。カルデア軍は必ず我々のもとから立ち去ると言って、自分を欺いてはならない。カルデア軍は決して立ち去らない。たとえ、お前たちが戦いを交えているカルデアの全軍を撃ち破り、負傷兵だけが残ったとしても、彼らはそれぞれの天幕から立ち上がって、この都に火を放つ。』」と、神様の裁きを語り伝えます。

 

続く11節から16節、「カルデア軍は、ファラオの軍隊が進撃して来たので、エルサレムから撤退した。そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、親族の間で郷里の所有地を相続するために、ベニヤミン族の地へ行こうとした。彼がベニヤミン門にさしかかったとき、ハナンヤの孫で、シェレムヤの子であるイルイヤという守備隊長が、預言者エレミヤを捕らえて言った。『お前は、カルデア軍に投降しようとしている。』そこで、エレミヤは言った。『それは違う。わたしはカルデア軍に投降したりはしない。』しかし、イルイヤは聞き入れず、エレミヤを捕らえ、役人たちのところへ連れて行った。役人たちは激怒してエレミヤを打ちたたき、書記官ヨナタンの家に監禁した。そこが牢獄として使われていたからである。エレミヤは丸天井のある地下牢に入れられ、長期間そこに留めて置かれた。」とあります。なんという理不尽さでしょうか。なんという不当な扱いでしょうか。

 

自分の事しか考えないゼデキヤ王は、17節で、「使者を送ってエレミヤを連れて来させ、宮廷でひそかに尋ねた。『主から何か言葉があったか。』」と尋ねますが、理不尽な扱いを受けるエレミヤは、「ありました。バビロンの王の手にあなたは渡されます。」と答えます。続く18節、「更に、エレミヤはゼデキヤ王に言った。『わたしを牢獄に監禁しておられますが、一体わたしは、どのような罪をあなたとあなたの臣下、あるいはこの民に対して犯したのですか。「バビロンの王は、あなたたちも、この国をも攻撃することはない」と預言していたあの預言者たちは、一体どこへ行ってしまったのですか。』と訴えます。神の真実な言葉ではなく、人々にとって都合の良い事ばかりを言ってだましていた偽預言者たちはどこへ隠れてしまったのでしょうか」と逆に尋ねるのです。この期に及んで、神から遣わされた真の預言者に助けを求める、神に救いを求める、そういう身勝手で理不尽な人が多いのです。

 

そういう人たちの中をわたしたちも生かされ、苦しみます。悩みます。ストレスを感じます。怒りを感じます。しかし、そういう時だからこそ、わたしたちの目をイエス様に注がなければならないのです。わたしたちの罪の代価を支払うために十字架に架けられ、わたしたちに代わって激痛に耐え、苦しみを味わい、わたしたちのために命をささげてくださったイエス様の執り成しの言葉を思い出さなければなりません。「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」という言葉です。これは主イエス様の祈りの言葉ですが、わたしたちに対する憐れみの言葉なのです。

 

エレミヤは、20節で、「王よ、今どうか、聞いてください。どうか、わたしの願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで殺されないように。」と懇願します。しかし、イエス様は十字架上で父なる神様に対して、「父よ、今どうか、わたしの祈り・願いを聞いてください。理不尽な扱いの中で苦しんでいる人々を憐れみ、お赦しくださり、彼らに救いと永遠の命を与えてください」と懇願するのです。

 

エレミヤを憐れに思ったゼデキヤ王は命を助け、パンを毎日与えます。しかし、主イエス様の父なる神様、憐れみと慈しみに富まれた神様は、イエス・キリストを救い主と信じる者たちに永遠の命を約束され、この地上で存える間、イエス・キリストという命のパンをもって養ってくださるのです。ですから、たとえ人々から理不尽な扱いを受けたとしても、共にいてくださるイエス様と愛の神様を信じて、イエス様の真実な言葉に日々聞き従い、恵みの中を歩ませていただきましょう。イエス様がいつも共にいてくださるから大丈夫です。