「『主は我らの救い』と呼ばれる正義の若枝」 十一月第三主日礼拝 宣教 2025年11月16日
エレミヤ書 33章10〜18節 牧師 河野信一郎
おはようございます。朝晩、だいぶ肌寒くなって来ていますが、今朝も皆さんとご一緒に礼拝を神様におささげすることができて感謝です。教会の家族の中には、お怪我をなさった方や病院から退院された方もおられますので、神様の癒しと回復をお祈りいたしましょう。
今朝は、礼拝の後に、子どもたちの健康と成長のために祝福のお祈りをいたします。教会に子どもたちが与えられていることを主に感謝いたします。わたしの父が最初に仕えた教会には附属幼稚園があり、父は園長をしていました。わたしは、その頃から、いつか幼稚園の園長さんになりたいとずっと思っていましたが、園長ではなく、牧師になるように神様から召されました。若い頃は、教会付属の幼稚園の園長の可能性もありと思ったこともありましたが、気づけば、もうこの歳になりました。ですから、園長になって子どもたちと遊ぶ事はできませんが、教会に子どもたちを増やせば良いと考えています。
日本のキリスト教会の中で、子どもたちの声が聞こえなくなっていると言われている時代であり、確かに少子化が進んでいますが、わたしたちの周りには子どもたちは確かに存在します。わたしたちに課せられていることは、イエス様を地域の子どもたちにどのように伝えることができるか、神様の愛をどのように分かち合うかです。それは高齢化社会において、どのように高齢者に福音を伝えるかという課題も関係してきます。子どもたちが少ないと捉えずに、まず「主よ、地域の子どもたちを祝福させてください」と祈り続けましょう。子どもメッセージでもお話ししましたように、神様に祈り求めたら、神様が与えてくださいます。
さて、9月から開始しましたエレミヤ書のシリーズも今朝のメッセージを含めてあと数回となりました。今朝は、33章10節から18節を主に、「主なる神様は、廃墟の中からでも、救い主・王を若枝のごとくわたしたちの与えてくださる」というテーマでお話しさせて頂こうと願っています。たとえ、わたしたちの心が喜びも感謝も生きる希望もないような荒れ果てた状態であっても、神様はわたしたちを憐れんでくださり、救い主をお与えくださる、いや、もうお与えくださっているという神様の真実さを聞き取ってゆきたいと思います。
少し歴史的なことに触れておきたいと思いますが、紀元前598年から597年にかけて、南ユダ王国はバビロニア帝国に包囲されていましたが、首都エルサレムが陥落し、王をはじめとする権力者や祭司たちや技能者たち大勢が捕囚の民としてバビロンへ移されてゆきました。その数は多かったのですが、バビロン軍はエルサレムの町や神殿に手をつけることはありませんでした。その捕囚の約150年前に北イスラエル王国がアッシリア帝国との戦いに負けて捕囚の民とされた時もエルサレムと神殿は奇跡的に無事でした。
ですので、150年の間、ユダヤ人たちの中では、エルサレム不滅、神殿不滅の信仰と言いましょうか、絶対にエルサレムと神殿は大丈夫、いかなることがあっても神様によって守られるという揺るがない確信を持っていたのです。しかし最初の捕囚から10年後の紀元前587年、第二回目の捕囚の規模は小さかったのですが、エルサレムと神殿がバビロン軍によって完全に破壊されてしまいます。エルサレムは焼け野原と言いましょうか、無惨な状態になってしまいます。つまり、ダビデの王家はここで途絶え、祭司の働きも無くなってしまったということです。エルサレムに「王」と「祭司」が存在しなくなってしまったのです。それはユダヤ人たちにとって悲劇の始まりでした。
預言者エレミヤは、イスラエルとユダの人々がずっと犯し続けた罪ゆえに、神様の裁きによって国は滅びると神様から託された言葉をそのままストレートに語りました。それゆえに王の逆鱗に触れて拘留させられます。実に理不尽な仕打ちです。当時、ハナンヤという預言者もいましたが、彼はたとえバビロニアへの捕囚があっても、その苦しみは2年で終わるという希望の言葉を預言として語りましたが、彼は偽預言者でしたから、2年経っても解放の日は来ませんでした。むしろ、ユダヤの民は捕囚の民として70年間をバビロンの地に住み、その間、エルサレムは廃墟、無法地帯、神の居られない町となっていました。
エルサレムと神殿が破壊され尽くされたことは、ユダヤ人たちにとって非常に受け入れ難い苦しみ、悲しみでした。しかし、それは理不尽なことではなく、ずっと神様に背き続けた罪の結果であったのです。わたしたちも日々の歩みの中で様々な理不尽さに遭遇します。しかし、その多くは、わたしたち人間の罪によって引き起こされる問題ばかりです。そういう中で、ユダヤ人たちがずっとしてこなかった事、わたしたちがしなかった事、それは心頑なに神様の存在を認めず、悔い改め・反省もせず、神様に立ち返らなかった事です。
しかし、神様は罪の中でもがき苦しむわたしたちに対して「わたしを呼べ」と33章3節で言われます。神様は、「わたしに助けを祈り求めたならば、わたしは必ずあなたに答え、あなたの知らない、隠された大いなることを告げ知らせ、ただ知らせるだけでなく、その大いなる業、救いの御業を行う」と預言者エレミヤを通して約束されます。
33章5節を読みますと、南ユダ王国の人々が苦しみに遭うのは、彼ら彼女らの「そのあらゆる悪行のゆえに、(神様が)この都(エルサレム)から顔を背けたからだ」という神様の言葉が記されています。とても厳しい言葉が記されています。しかし、神様は怒りの神ではなく、愛と憐れみの神、忍耐と慈しみの神であられます。
ですから、6節から8節を読みますと、「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。」と救いの約束を宣言されます。この約束を信じ、神様をほめたたえる者たちに大いなる恵みと平和が神様から与えられるのです。
今朝の聖書箇所の33章10節から13節までを読みます。「主はこう言われる。この場所に、すなわちお前たちが、ここは廃虚で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。万軍の主はこう言われる。人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所で、またすべての町々で、再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる。山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミン族の所領、エルサレムの周辺、ユダの町々で、再び、羊飼いが、群れをなして戻って来る羊を数えるようになる。」とあります。
ユダとイスラエルの犯した罪の重さゆえに70年の捕囚の時が課せられましたが、それは神様に対して罪を悔い改め、神様に立ち返り、神様を呼び求めてゆく一人ひとりとなってゆき、そのような神とその言葉に従う民が形成されるために必要でした。しかしながら、イスラエルの民の心の復興も、エルサレムの復興も、今を生きるわたしたちの心の癒しと回復と救いも、わたしたち人間の努力ではなく、愛なる神様の御力によってなされる業です。
子どもたちの成長も然りです。子どもに対する親の愛情と忍耐、知恵と努力だけでなく、わたしたちの祈りと見守りだけでなく、神様の豊かな愛によって、子どもたちは日々成長が与えられてゆくのです。大人の責任は、神様から託されている子どもたちの成長のために、子どもたちを日々覚えて祈りながら伴走してゆくことです。
14節から16節、「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」とあります。「見よ、わたしが」と神様は言われます。神様が恵みの約束を果たされるのです。神様が約束される「正義の若枝」とは誰でしょうか。「公平と正義をもってこの国を治める」お方は誰でありましょうか。
17節から18節をご覧ください。「主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。レビ人である祭司のためにも、わたしの前に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない。」と神様が約束されますが、ユダの没落とエルサレム神殿の破壊によって不在になった「イスラエルを治める王」、そして「神様にいけにえをささげる祭司」はいったい誰でしょうか。それは、神様から遣わされた神の子イエス・キリストです。このお方が、「主は我らの救い」と呼ばれ、賛美される救い主なのです。このイエス・キリストの愛と正義と公平さによって、わたしたちの心は癒され、回復し、わたしたちの生きる平和のない不条理な社会と国と世界に統治と復興と繁栄が与えられるのです。その救い主の誕生を喜び祝うのがクリスマスであり、救いの完成に感謝するのがイースターなのです。すべては神様の愛の業であるのです。主に感謝です。
