「試練の先にある神の備え」 二月第一主日礼拝 宣教 2026年2月1日
創世記 22章1〜14節 牧師 河野信一郎
おはようございます。早いもので、今日から2月に入りました。寒い日がずっと続いていますが、今朝も礼拝堂の皆さん、そしてオンラインの皆さんとご一緒に礼拝を神様におささげすることができて感謝です。すでにご承知のように、北海道から山陰地方までの日本海側にお住まいの方々の生活は大雪のために悲惨な状況です。除雪作業が追い付かず、仕事や学校に行けない人たちもおられます。礼拝に集えない状況の方々もおられ、コロナパンデミックの時のように、礼拝をオンラインに切り替えておられるそうです。大雪に悩まされている方々の命と生活が被害から守られますように祈りましょう。また、インフルエンザが流行っています。皆さんもどうぞお大事にお過ごしください。お祈りしています。
さて、今年の受難節・レントは、今月18日から始まり、4月4日まで続きます。イエス様が歩まれた十字架への道を覚えながら過ごす期間中に東日本大震災から15年目を迎えます。東北の被災地に建てられ続け、被災者の方々に神様の愛を分かち、誠実に地域に仕えておられる3つの教会を覚えて祈る時を3月8日の主日礼拝の中で持ちます。それらの教会を支援するための献金を今年もぜひ送りたいと願っています。週報の献金報告欄をご覧いただきますと、今日現在3万1千円ほどの献金がささげられていますが、可能であれば1教会に3万円は送りたいです。一緒に祈り、あと6万円、みんなでささげましょう。礼拝堂入口手前に小さな木箱があります。その箱は被災地支援専用の献金箱です。どうぞご協力ください。
さて、今月は「神の備え」というテーマで聖書の色々な箇所からメッセージをさせていただきます。英語では、provideとか 、provisionとか、supplyという言葉になりますが、神様がわたしたちの必要を満たしてくださる。神様が祝福の準備をしてくださっている。たとえ試練の中を歩むことがあっても、神様が乗り越える対策を講じて導いてくださる。逃れる道を備えてくださるということなどを御言葉から分かち合わせていただきたいと思います。
執事会では、4月から始まる新年度に向けて準備が進められています。昨日は、新しい財務執事から予算案が提示されました。その予算案を眺めながら、どのような年度になってゆくのか、いろいろ思い巡らしました。不安もあり、期待もあります。しかし、神様から求められているのは、わたしたちが共に御言葉に聴き、心を合わせて祈り、神様に信頼して、主のお導きに従ってゆくことです。まず、主の日ごとにここに集い、一緒に礼拝を神様におささげすることです。わたしたち一人一人を、この大久保教会を祝福してくださるのは神様であり、祝福するために神様は数えきれない程の備えをご計画の中でしてくださっています。
さて、「神の備え」というテーマでお話しする中で、候補としておよそ30の聖書箇所が与えられていて、どの聖書箇所を分かち合うことが神様の御心であるかを判断することが難しいのですが、「神の備え」というテーマで必ずと言って良いほど語られるのが、今朝の御言葉である創世記22章だと思います。子どもメッセージの中でもお話ししましたが、14節の「主の山に備えあり」という言葉はあまりにも有名です。しかし、アブラハムが確信をもって「主の山に備えあり!」と言えるまでには大きな試練がありました。大きな試練、神様からの信仰のテストを受けなければなりませんでした。そこには大きな葛藤、信仰の戦いがありました。神様がアブラハムに問われたのは、何を信じるのか、何を最優先するのか、何に信頼するのか、何に服従するのか、何を礼拝するのかという信仰です。
アブラハムの物語は創世記12章から始まります。彼が75歳の時に神様から、「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたを高める。祝福の源となるように。」と招かれました。彼は神様の言葉に素直に聞き従い、約束の地に向かいました。神様は、アブラハムに「あなたを大いなる国民とする、祝福の源とする」と約束されましたが、アブラハムが100歳になるまで、神様は彼に子どもを与えませんでした。ようやく授かった息子を「イサク」と名付けます。その名は、「彼は笑う」という意味です。息子の笑顔が、寝顔が、成長がアブラハムと妻サラの大きな喜びであったに違いありません。愛情を注いで大切にイサクを育てます。
しかし、そのような幸せの絶頂期に、神様は突然アブラハムの信仰を試されるのです。皆さんは、何故そのような無慈悲なことをするのかと思われるかもしれませんが、神様はアブラハムが彼の人生の中で、生活の中で何を最も大切にしているのかを見ようとされるのです。
1節と2節を読みましょう。「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と命じるのです。「最も大切なものをわたしのためにささげなさい」と神様はアブラハムに命じるのです。「数多くある中から一つを選んで、それをささげなさい」ではなく、「あなたが最も大切にしているものをささげなさい」と命じられたら、わたしたちはどのような反応をとるでしょうか。神様から離れる人が続出するでしょう。その中にわたしも含まれます。アブラハムはどうであったでしょうか。
3節に、「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」とあります。1週間後、1ヶ月後、1年後ではありません。翌朝です。アブラハムは神の命じられた地に向かうのです。信じられません。4節に目的の地まで三日間かかったとありますが、この間、アブラハムは何を考え、何を思い巡らしていたでしょうか。心の内に激しい葛藤はなかったのでしょうか。
目的地が見えますと、5節、アブラハムは若者たちに「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と言って、6節、「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて」行きます。これから起こることを知っている父親と何も知らない息子が山を登ります。父親の足取りは重く、息子の足取りは非常に軽かったのではないでしょうか。何よりも大好きなお父さんと一緒に神様に礼拝をおささげすることができるのです。
7節、「イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』」と尋ねます。愛する息子に「焼き尽くす献げ物はあなただ」と言えるはずがありません。8節、「アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』」と言います。
「神が備えてくださる」という言葉は、不憫な息子を思いやる父親の愛から出たとっさの嘘ではありません。そうではなく、神様に対するアブラハムの信頼の言葉、神様が憐れんでくださる、息子の代わりを神様が備えてくださるという信仰から出た言葉であったと考えられます。たとえここで息子を失ったとしても、祝福を約束してくださる神様を神と信じて、その言葉に従うという神様への信頼の言葉、信仰に基づく言葉であったと考えられます。
9節に、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」とありますが、父親も、息子も、どのような心境であったでしょうか。父親は「いよいよこの時が来た」と思い、息子は「えっ、お父さん、どういうこと?なぜ僕がいけにえになるの?正気?」と叫んだでしょうか。わたしがイサクであれば叫んで大暴れしたと思いますが、その状況は聖書に記されていません。準備が整った後、10節、「アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」のです。愛する息子を屠ろうとしたとは、息子を愛するよりも、息子を与えて大いなる喜びを与えてくださった神様を第一にするということ、神様を愛し、神様を礼拝するということです。
わたしたちも日々の生活の中で信仰が試されています。本当に神様を信じているのかと、今朝、わたしたちは神様から問われています。アブラハムと同じような神様に対する愛が、信頼がわたしたちにあるでしょうか。神様を畏れ、心から礼拝をささげているでしょうか。日常生活の中で神様を第一としているでしょうか。そうしたくでもできないのが現実ですが、それでも神様に信頼を置く者に救いと祝福の備えがある事を神様は今朝教えてくれます。
11節と12節に、「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が、『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』」とあります。神様はアブラハムの信仰を喜ばれるのです。そしてイサクの代わりを与えてくださるのです。13節、「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」のです。14節、「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」とあります。
この神様の備えの箇所を読んで、「終わり良ければすべて良し!」と喜ぶ前に、わたしたちは自問しなければならないと思います。わたしたちに、アブラハムと同じような神様に対する愛が、信頼があるでしょうか。神様を畏れて、心から礼拝をささげているでしょうか。日々の生活の中で神様を第一としているでしょうか。しかし、思っても、願っても、そのように生きられないわたしたちがいます。
しかし、神様はそれでもわたしたちを愛して憐れんでくださり、わたしたちの救いのために神の御子イエス様を与えてくださったのです。イサクの身代わりは雄羊でしたが、わたしたちの身代わりはイエス様なのです。わたしたちの身代わりとして、わたしたちの罪を贖う供え物、焼き尽くす献げ物として神様が備え、屠ってくださったのが救い主イエス・キリスト、贖い主なのです。このイエス・キリストを通して神様の愛を知り、その愛を受け取り、神様を愛する、礼拝する者とされてゆき、イエス様の愛と祈りと命と通して、わたしたちは家族をはじめ隣人を愛し、仕えることが初めてできるようになります。
たとえ試練の中にいま置かれていたとしても、その試練の先に神様の備えがあること、イエス様が共にいてくださることを信じましょう。信じて、主と共に歩みましょう。神様の祝福は、これから先にもまだたくさん準備されているのです。目の前の物にではなく、神様とイエス様だけに信頼を置き、主の言葉に日々聴き従ってまいりましょう。
