ヨハネ(23) 命のパンであるイエス①

2026.3.4 ヨハネによる福音書6章22節〜33節

大久保教会で用いて読んでいる新共同訳聖書では、ヨハネによる福音書6章22節から59節までが一括りとなっていて、「イエスは命のパン」という見出しが付けられています。とても長い箇所ですので、何回かに分けてお話しさせていただこうと思い、今回は22節から33節までを共に聴いてゆきたいと思います。

 

その前に6章を少し振り返りたいと思いますが、この6章は、旧約聖書の出エジプト記の出来事に関係していると考えられています。1節から15節には、イエス様が男性だけで5千人、女や子どもを合わせれば1万5千人から2万人の群衆を大麦パン5つと魚2匹のみで養ったという奇跡が記されていますが、これはエジプトでの奴隷生活から解放されて約束の地に向かっているイスラエルの民が、荒野で食べ物が一切なくなった時に神様につぶやくのですが、神様はそれでも愛をもって、朝ごとに「マンナ」という食べ物を天から与え、夜には「うずら」を与えて、民の命を守られた奇跡(16章)と関係しています。神様は、その期間、60万人(出エジプト12:37)にも及ぶ民を毎日養われたのです。

 

新約の時代では、神様から遣わされた御子イエス・キリストがイスラエルの民と異邦人たちの肉体的かつ霊的な飢えを満たしてくださる救い主であることが4つのすべての福音書に記録され、イエス様こそがキリスト・メシアであると宣言しています。60万人と2万人では大きな違いがあると思われるかもしれませんが、人数ではなく御業が重要なのです。

 

続く16節から21節には、ガリラヤ湖を舟で移動していた弟子たちに嵐が突然襲い掛かり、暗闇の中で目的地に着けないで苦悩していたところへイエス様が湖の水の上を歩いて近づき、イエス様が舟に乗られると嵐は静まり、すぐに目的地に着いたという出来事が記されていて、この出来事は出エジプト記14章の出来事に関連すると考えられています。

 

すなわち、イスラエルの民を再び捕らえて奴隷に戻そうとエジプト軍が背後から押し迫って来る中、目の前に立ちはだかる紅海の海水を神様が左右に分けて乾いた道を開き、その道を民に前進させて救ったという奇跡と同じように、荒れ狂う湖の上を歩いて弟子たちに近寄り、嵐を静め、目的地へと導くイエス様が神様の御許・御国へと続く「道」であり、この救い主を通して永遠の命が信じる者たちに与えられるとヨハネはここで記すのです。

 

今回の学びの箇所を22節から27節、28節から33節と2つに分けてお話をしたいと思います。最初の22節から27節は、「何のためにわたしたちは働いているのか、生きているのか」について、続く28節から33節は、「神様に喜ばれることとは何か」がイエス様によって教えられていて、現代を生きるわたしたちにとって、どちらも重要なテーマです。

 

22節から27節に聴く前に、自分は何のために生き、何のために働いているかについて考えてみたいと思いますが、皆さんは何のために生き、何のために働いているのでしょうか。その問いかけは自分の存在理由について考えることでもありますが、生きる動機は何かという問いでもあります。生きるために働くという考えが一般的だと思いますが、最近では、遊ぶために働くという人も多く見受けられます。しかし、ほとんどの人は自分や家族の生活ために、幸せに生きるために身を粉にして働くわけです。

 

働くために生きるという人は少ないと思いますが、「働かざる者食うべからず」という言葉があるように、勤勉に働くことを社会は重んじ、働かない者は存在すべきでないというような風潮があるわけで、様々な事情や理由で働けない人たちを切り捨てる社会は間違っています。それは教会の中でも同じで、大切にされるべき存在は小さく弱くされている人たちであると神様とイエス様の御心を教える箇所は聖書には多くあります。

 

そういう中で、わたしたちがいつも大切にして考え、集中すべきことは、わたしは「何のために」生きるのか、「何のために」働くのかということです。自分のためか、家族のためか、他者のためか、社会のためか、神様のためなのか。つまり人生の目的を持ち、優先順位をしっかり定めることが重要であるということです。自分のためよりも、誰か他者のために生きるということが、わたしたちが生きてゆく上で重要な観点だと思います。

 

22節から25節には、イエス様が2万人の人々に5つのパンと2匹の魚を分け与えて養った奇跡の業の翌日のことが記されています。「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」とあります。

 

群衆は、何にためにイエス様を捜し求めてカファルナウムまで来たのでしょうか。動機は何であったのでしょうか。イエス様は、その答えを知っておられます。イエス様は、26節で、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言われます。イエス様は、群衆の心の中を見透かしておられるのです。これは、わたしたちの心の中もイエス様はすべて知っておられるということです。人に決して知られたくないことも、イエス様はすべて知っておられる。イエス様には隠し事が一切できない。だから、常に正直に生きるべきなのです。

 

群衆がイエス様を捜した理由は、「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言われます。ここでの「しるし」は複数形になっています。これまでイエス様がなして来た様々な奇跡の業を見て来たからではなく、一回の奇跡を見て、それに圧倒されたから、そしてもっと奇跡を見てみたいと思ったから来たと言っているのです。これがイエス様を捜し出した群衆の動機であったのです。「パンを食べて満腹したから」、これからも満たされ続けたいということがイエス様を求めた動機であり、イエス様を誉め讃えようとか、イエス様のために何かしようという思いから来るものではなかったのです。

 

イエス様は、27節で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われます。あなたがたは何のために生きるのか、働くのかという存在理由、人生の目的が問われている中で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」とイエス様はおっしゃいます。人生を歩む中で、生きるにしても、働くにしても、学ぶにしても、すべてのことを「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われるのです。つまり、あなたの関心を、生きる動機を、人生の優先順位を限られたこの地上での人生に集中せずに、神様の御許で永遠に生きることにシフトしなさいと招かれるのです。

 

「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」とありますが、神様から遣わされた救い主イエス・キリストを信じなさい、この救い主が「命のパン」であり、生きる糧・力・動機・目的を与える方である、信じなさいという招きがここにされているのです。神様が与えてくださっている命、体、健康、時間、才能、お金などを、何のために使っているのか。神様の意図・目的を知ることが重要ですが、すぐに朽ちて無くなってしまうもののために生きるのではなく、永遠へとつながる大切なもの・事のために生きる、食べる、働く、勉強するなど、すべてに明確な目的を持って生きることです。永遠の神様に向かって生きることとも言えるでしょう。

 

続く28節から33節では、生きるために必要なすべてを与えてくださる神様に喜ばれる生き方とは何かをイエス様は群衆に教えます。28節で、「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』」とイエス様に尋ねます。わたしたちは救いや永遠を考える時、何か良い業・善行を積まなければ天国へ行けないと考えてしまいますが、救いも、永遠の命も、天国に関しても、わたしたちの強い意志や努力だけでは何もできないのです。頑張れば頑張るほど、自分の弱さに気付かされ、途方に暮れて絶望するしかない。しかし、わたしたちの絶望を希望に変えるために、わたしたちを暗闇から光の中に招くために、イエス様は神様からこの世に遣わされ、次のように言われて招くのです。

 

29節、「イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」とありますが、「神の業を行う」とは「神に喜ばれる生活、人生を生きる」ということです。「神に喜ばれる生活、人生を生きる」とは、「神がお遣わしになった方、つまりわたしを信じること」だとイエス様は明確におっしゃいます。

 

しかし、群衆はもっと奇跡を見なければ信じないと頑なに「しるし」にこだわり、30節から31節、「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです。』」と、出エジプトの奇跡を持ち出します。

 

群衆は、すでにイエス様の大きな業・奇跡を見ているにも関わらず、もっと見なければ信じないと言って、自分たちの傲慢さ・身勝手さには気付いていないのです。では、わたしたちはどうでしょうか。もっと奇跡を見なければ信じないのでしょうか。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(この)信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」とヘブライ人への手紙11章1節と6節にあります。

 

32節と33節に、「すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。』」と言われます。旧約の時代のパンは神様がモーセを通して与えた恵みです。新約の時代においては、神様が天から与えられたまことのパン、それがイエス・キリストであり、この救い主を信じる信仰によって、神様がイエス・キリストを通して与えてくださる信仰によって、救いがわたしたちに与えられ、神の子として永遠に生きる命が恵みとして与えられるのです。