2026.3.11 ヨハネによる福音書6章34〜40節
ヨハネ福音書6章の22節から59節を何回かに分けて聴いています。前回の学びでは、①わたしたちは何のために生きるのか、②わたしたちを生かしてくださっている恵みの神が喜ばれるわたしたちの心・行いは何であるかについて聴きました。
①に関して言えば、群衆がイエス様を追いかけ続けたのは、興味のみで、自分の欲求を満たすためだけであり、イエス様を心から救い主と信じるためではありませんでした。そのことをイエス様に何度指摘されても群衆は分かりません。パン5つと2匹の魚で2万人が、自分たちが養われても彼らの興味は「信仰」とはならず、もっと凄い奇跡を見せて欲しいと自分の心を満たす欲望が高まるだけです。何か不思議なこと、奇跡を目の当たりにしても、「今日はラッキー!今日は運が良かった」と喜ぶだけで、すぐに「はい、次!」となってしまう。欲望が尽きないのです。奇跡の中に神様の伝えたいことがあること、わたしたちが深く考えなければならないことがあることを知る必要があります。
②に関して言えば、神様が喜ばれること、それは神様がこの世に遣わされた救い主イエス・キリストをわたしたちが信じるという事に尽きます。群衆は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねますが、「救いを得るためには自分が何かしなければ、良い行いを積まなければ天国に行けない」と考えるのですが、イエス様はただイエス様を信じるだけで良いと言われます。「命のパン」であるイエス様を信じて、心の中に受け取れば良いのです。自分の力で頑張れば頑張るほど、自分の弱さに気付かされ、途方に暮れて絶望するしかありません。イエス様がご自分のことを「命のパン」であると言われるのは、イエス様がわたしたちに生きる糧と力を与え、生きる目的・意義を与えてくださるからです。わたしたちはこのイエス様を信じなさいと招かれていて、その救いの招きに応えて、主に従う人を神様は喜び、その喜びは大きいとイエス様は示しておられます。
前回聴いた箇所からもう一点触れておきたいのは、32節と33節です。イエス様はここで、「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と言われます。イエス様が「はっきり言っておく」と言われる時、それはイエス様が「これから真実・本当のことを語ります」とか、「あなたがたにとって非常に重要なことを今から教えます」という時なのです。
今回の真実は、群衆(ユダヤ人)は偉大なる指導者モーセがエジプトから逃れて荒れ野を進むイスラエルの民の飢えを養ったと思っているが、それは間違いで、天の父、つまり神様がイスラエルの民を「命のパン」をもって養ったのだ、勘違いしてはいけないと言われます。自分のために生きること、自分の強い意思と努力だけで生きていると思うこと、自分の頑張りようで今後も何とかなるという生き方も勘違いな、的外れな生き方なのです。重要なことは、神様が天からお与えになる「まことのパン」、イエス・キリストを信じること、このパンをいただきながら、信じながら生きてゆくことが重要だとの教えです。
「はっきり言っておく。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とイエス様はおっしゃいます。松本俊之先生の著書「ヨハネ福音書を読もう上」(p147)からの引用になりますが、「この『与える』というギリシャ語には、『分け与える』と言う意味と同時に、『死に引き渡す』という意味が含まれています。イエス・キリストは、パンを分け与えるように、ご自分の命を与えられました。イエス・キリストの十字架の死、それこそが、このパンに込められたもう一つの興味深い意味なのです。」とありました。イエス・キリストという「命のパン」をいただいて生きるわたしたちを神様は喜ばれ、この地上で生かされている間、この恵みによってわたしたちは生かされてゆくのです。「生きている」という生き方と、「生かされている」という生き方では喜びが全然違います。
さて、今回の学びの本題に入ります。34節に、彼ら(群集)が、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言ったとあります。ここから人間にとって、食べることが強い欲望の一つであることが分かります。しかし、食欲が満たされても、それが続くのはほんの数時間で、すぐにお腹が空きます。イエス様は、わたしたちの食欲も満たしてくださいますが、それよりもわたしたちの心・霊を満たすことが重要であると考えておられます。
ですから、35節で、「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」と言われます。イエス様は、わたしたちが抱く渇望、心・霊に抱く飢え乾きを満たすために神様から遣わされた「命のパン」であり、このイエス様がイエス様のもとに来る者の心・霊的な必要を必ず満たすと宣言されます。「わたしが命のパンである」とは、第一に、わたしたちを霊的に生かすのはイエス様であるということです。第二に、わたしたちの心を神様の愛で満たすために、イエス様はご自分の命を捨てて与えてくださるということです。
「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」とあります。「来る」とは「来なさい」という招きで、命のパンを受けなさいと招かれています。この命のパンをいただくとは、イエス様を救い主と信じるということです。「自分は弱い、情けない、こんな者を誰も救えない」と思わないで、「自分でも神様を信じて良いんだ、信仰へと招かれているんだ」と素直に喜び、イエス様を救い主として心に受け入れて信じること、その信仰が日々を平安のうちに生きる力となります。イエス様こそ、わたしたちに命を、生き甲斐を、人生に活力を与えてくださるお方なのです。
けれども、それでも群衆はなかなか信じません。心が頑なというよりも、自分のことしか考えられない。自分のことで精一杯。心に余裕がない。今の時代に生きる人々も同じです。イエス様は、36節で、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」と言われます。イエス様のなさる「しるし」だけを見る、その表面的な部分だけを見ていては、霊的に生きる力を得ることはできません。その深いところにある神様の御心を知ろうとしなければ、本当の意味で信じるという信仰の本質、神様の御心を知ることはできません。
信仰の本質を知るとは、「自分は生きている」という人が命の本位・中心になるのではなく、「神様に生かされている」という神様が命の本位・中心であるということを認めるということです。御心を知るとは、自分は自分のために生きる存在ではなく、神様に造られ、神様のために、神様の思いを第一に考えて生きる存在であることを認めることから始まります。わたしたちの命のスタート点は神様であり、自分の勘違いを認めて、心を神様に向けてゆくことが新しい命に生きることになります。そして、その新しい命のスタート点がイエス・キリストであるのです。
37節に、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」とあります。これはイエス様による神様の救いの確かさが言われています。わたしたちがイエス様を信じることができるようになった背景には、神様がわたしたちを愛し、救いへと招いてくださり、信じることができるように神様が働いてくださって、今も聖霊をもって働いてくださっているということがあります。しかも、イエス様のもとに来る人をイエス様は誰一人として追い返さない、決して拒むことはないと言っておられます。イエス様は、どんな者も招き、救いを与え、その救いから外される人はいないということです。そこには、身分や学歴や過去のことは問われないということです。それがイエス様の心であり、神様の御心なのです。
38節で、イエス様は、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」と群衆に、弟子たちに、わたしたちに言われます。イエス様の地上での命は、父なる神様の御心を行うためという一点に集約されます。決して自分のためだけに生きられなかった。神様の願いとイエス様の願いが常に一緒だったから、常にシンクロしていたからです。
39節に、イエス様の「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」という言葉がありますが、神様の御心はすでに3章16節17節で分かち合われています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。
ここで面白いのは、「わたしに与えてくださった人を(わたしは)一人も失わない」とイエス様が言われている点です。わたしたちがイエス様の手を握ったら、イエス様は決してその手を離さない、わたしたちを手放さない、諦めない、愛し続けてくださり、復活させて永遠の命に生かしてくださるというイエス様の約束が記されていることです。わたしたちは、判断ミスをして動揺したり、意気消沈することがあります。しかし、それはサタンからの誘惑です。自分の弱さを嘆いたり、自分を諦めて、自分のほうからイエス様とつながった手をゆるめてしまうことがあります。しかし、イエス様は一度握った手を離されません。ずっと握り続けてくださいます。わたしたちには自分を救う力はありません。しかし、イエス様は救い主でありますかたら、わたしたち一人ひとりを救う力があるのです。わたしたちは、このような強い愛で罪赦され、愛され、この愛の絆に結ばれて生かされているのです。そのことを喜び、感謝し、生きる力を日々いただきましょう。
40節、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」とイエス様は再度宣言されます。イエス様がこの世にわたしたちのもとに遣わされたのは、神様の愛によって、わたしたちが終わりの日に甦らせられ、永遠の命が与えられて生きることです。
