- 3.18 ヨハネによる福音書6章41〜59節
6章22節から始まる「イエスは命のパン」であるという長い箇所を数回にわたって聴いていますが、前回の40節までは、イエス様が福音を語り、真摯に向き合ってきたのは「群衆」でした。しかし、今回の41節からは「ユダヤ人」に変わります。「群衆もユダヤ人たちでなかったのか」と言われそうですが、確かに大半はユダヤ人であったでしょう。しかし、群衆の中には異邦人たちもいたとも考えられます。
この箇所の最後の59節には、「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」とありますので、イエス様が語られた場所が湖のほとりからユダヤ教の礼拝堂シナゴーグに変わり、イエス様の言葉を聴く人々の信仰的レベルも無知な群衆から、よりグンと高まったと言って良いと思います。しかし、信仰生活が長いとか、聖書であったり、信仰についての理解力が高まるという事は、それなりの形が固まっているとう事です。すなわち、より偏見を持っているという事でもあり、もし語る者と異なった意見を持つならば、それは反発力・敵意・悪意に変わるという事でもあります。
それを裏付けるかのように、41節から42節を読みますと、「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか。』」とあります。
ユダヤ人たちは、自分たちはイエスという人物がどのような者であるかを知っていると言います。彼らが知っているのは、イエス様の家柄など、イエス様が公生涯を始める前の情報のみです。彼らはイエス様の人間性を知っていましたが、イエス様が神様から遣わされた神の御子であり、メシアであるというイエス様の神性を認めることができませんでした。彼らには「これは大工ヨセフの息子のイエスではないか」というすでに頭の中で固まった情報・偏見しかなかったからです。そのような偏見が「つぶやき」を生むのです。
イエス様は、43節と44節で「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われます。「つぶやき合うのはやめなさい」というのは、偏見を持つことをやめなさいという意味だと思います。凝り固まった観念、固定観念を持つのをやめなさいという事でしょう。彼らのつぶやきは、驚くべきしるしを見ても信じないという不信仰から出たものであり、イエス様への疑いに由来します。
イエス様は続けて、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と言われますが、ユダヤ人の多くは、自分たちが律法を守ること、良い行いをすることで神様に近づくことができ、救われ、永遠の命が与えられると信じていました。つまり、自分の頑張りようで、自分の信仰で救いを受けられると考えていました。主導権は自分たちにあると勘違いしていたのです。しかし、実はそうではなく、神様から与えられる救いは、1)まずイエス・キリストを救い主・メシアと信じることによって与えられる、そして2)その救いは神様がわたしたちをイエス様へと引き寄せてくださることによって与えられるとイエス様はここで言っておられます。
つまり、救いの主導権は、わたしたちにあるのではなく、神様にあるということです。ここにある「引き寄せる」という言葉は、他の聖書では「導く」と訳されていますが、「何か重い荷物を引きずるように引っ張って行く」という意味を持っていて、しるしを見ても信じない、パンをいただいてもなかなか信じようとしない人々を神様が引っ張ってイエス様のもとへ行かれる、その神様の愛と情熱を感じる言葉であり、救いの主導権は人間にあるのではなく、神様にあるということをイエス様は教えておられます。わたしたちはただイエス様を救い主として心にお迎えし、信じれば良いのです。
45節で、イエス様は旧約の預言者の言葉を引用し、「『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」と言われます。これはわたしたち一人ひとりが神様から直接教えを受けなければ信じることには至らないということが言われ、その教えを聴き、学べば信じることができると言われています。
すなわち、神の言葉であるイエス・キリストから聴き、学び、その言葉に従えば、神様から救いが与えられるが、この世の考えや人の意見・声にばかり耳を傾けて聴いていては、心は絶えず間違った情報で満たされ、心と頭は常に混乱し、目の前におられるイエス様を見ても、救い主と素直に信じることができなくなるということで、それがユダヤ人たちの中に実際に起こっているわけです。神の正しい情報は、イエス・キリストにあるのです。
46節と47節で、イエス様は、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」と言われます。イエス様はここで、ご自分が神様から出た救い主、神様から任務を受けて派遣されたメシアであると宣言をされ、「わたしを信じる者は永遠の命を得られる」と言われます。「得ている」と過去形で言われるのは、イエス様を通して救いは必ず与えられるという神様の約束・言葉の確かさを、救いの確かさをはっきり示すために使われています。
イエス様は、ご自分に対して偏見・固定観念・悪い感情を抱くユダヤ人たちに対して、もう一度、48節で「わたしは命のパンである。」と宣言され、そしてさらに49節から51節で、「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と言われます。「わたしが与えるパン」とは、イエス様がわたしたちの罪のために十字架に架けられて贖いの死を遂げられることを意味し、この贖い主を信じる人に永遠の命が与えられると明言しています。
イエス様がここで敢えてこのように言われるのは、たとえ自分に対して偏見や敵意を持つ人たちであっても、イエス様と向き合う中で自分の間違いに気付き、悔い改めて神様に立ち返るならば、神様の憐れみによって救われ、永遠の命が与えられるという福音を伝えたかったからです。人には偏見があっても、神様とイエス様には偏見はないということです。只々、わたしたちを憐れむ心、深い愛と忍耐があるのです。この慈しみの神様と救い主イエス様を信じる者にも、偏見や後ろ向きな考えや傲慢さがあってはならないのです。
しかし、残念ながら心を頑なにしたままのユダヤ人たちの言動が52節に記されています。「それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」とあります。「激しく議論した」という言葉にユダヤ人たちの心の頑なさ、非常に問題のある偏見を持っていたことが見え隠れしています。この人々の議論に対するイエス様の教えが52節から59節の中心です。しかし、イエス様の口から出る言葉は、すでに激しい議論をさらに激化させるような、油を注ぐかの内容になっています。
53節から56節に、「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。』」とあります。この言葉を聞いたユダヤ人たちは心臓が止まるほどの驚きを覚えたでしょう。
旧約聖書には、人の血おろか、動物の血であっても、血を飲むことは禁じられていたからです。しかし、イエス様がここでおっしゃっているのは、イエス様を食べたり、その血を飲んだりする事ではありません。イエス様がわたしたちの身代わりとなって十字架上でわたしたちの罪の代償を支払ってくださり、血潮によって罪を洗い流すという罪の赦し、罪からの「清め・聖化」のことを言っておられます。
イエス様の「わたしを食べ、その血を飲みなさい」との言葉は、イエス様を救い主として信じなさいという招きです。しかし、余談になりますが、このイエス様の言葉をそのまま受け止めた人たち、心に偏見や敵意のある人々、ローマの人々は、クリスチャンたちは集会で人間の肉を食べ、血を飲んでいると噂を広め、キリスト教会への激しい迫害が遭った過去があります。イエス様の言葉の背後には、わたしたちを救うためのイエス様の贖いの死、犠牲があることを覚える必要があります。そうでないと、イエス様の言葉、聖書の言葉は、御心とは正反対に、人を攻撃し、尊い命を奪う道具として使われてしまいます。
56節でイエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と言われますが、イエス様を救い主と信じる者の心に自分はいつも共にいて、信じる者たちの心の中にも自分は必ずいると約束されている言葉です。イエス様との親密な関係性というのは、この「いつも共にいる」と約束されるイエス様とその約束を疑わずに信じる者の間に築かれる一体性であり、恵みです。
57節と58節にイエス様の「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」との言葉がありますが、偏見を持ったままイエス様と向き合うと疑念ばかり抱いてしまい、徐々にイエス様から離れてゆきます。しかし、イエス様を信じる人は神様の愛に生かされている真実を喜び、心に感謝と平安と希望が与えられます。
