ピラトの権限とキリストの権限

「ピラトの権限とキリストの権限」 三月第四主日礼拝 宣教 2026年3月22日

ヨハネによる福音書 18章36b節〜19章16節     牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。2月18日から今年の受難節を過ごしていますが、来週の29日からいよいよ受難週に入り、イエス様の十字架までの数日をたどります。来る29日の朝の礼拝は、棕梠の日礼拝としておささげし、礼拝後には主の晩餐式を執り行います。どうぞ覚えて、ご出席ください。

 

29日の午後には教会の定期総会が開かれ、2025年度の歩みを振り返り、2026年度の計画と予算を皆でよく話し合い、決議してゆく時を持ちます。大久保教会がキリストの体であるために、神様の御心を第一にする教会であるために、とても重要な話し合いの場であり、主の導きと励ましと祝福を祈る時です。教会員は出席くださり、教会員ではなくても共に礼拝をささげている方々には主の恵みがこの総会にありますように、お祈り頂きたいと願います。

 

さて、わたしにとって2週間ぶりのメッセージとなります。15日のメッセージはS宣教師が担ってくださいましたので、わたしは「少しだけでも気持ちに余裕ができるかなぁ」と思っていましたが、ところがどっこい、蓋を開けてみたら、半年分ぐらいの課題が一挙に押し寄せて来たような、いつになく過酷な2週間でした。この期間は、容赦なく押し寄せてくる様々な課題と向き合うために、神様が与えてくださった期間なのだと思いました。そしてS宣教師を通して語られるメッセージが、わたしに対して、そして大久保教会に連なる皆さんに対して、愛の神様がイエス・キリストを通して与えてくださる平和の内に生きなさい、歩みなさいと言って、励ましてくださったのだと、わたしは心から感謝しました。

 

今年の受難節は、わたしたちの身代わりとなって十字架への道を歩んでくださるイエス様の言葉をヨハネによる福音書から聴いています。これまで14章、16章、そして17章にあるイエス様の祈りを共に聴いてまいりましたが、今回はイエス様がイスカリオテのユダに裏切られ、群衆に逮捕され、愛するペトロにも否まれ、大祭司から尋問され、暴力と嘲弄を耐える中で、最後に総督ピラトから尋問され、死刑の判決を受ける18章後半から19章に聴いてゆきます。そして来週の日曜日のメッセージは、イエス様の十字架上での言葉に聴いてゆきたいと祈って準備していますので、ぜひお祈りに覚えて礼拝にご出席ください。

 

さて、先ほども申しましたように、今朝はイエス様が総督ピラトから尋問されるところにフォーカスしてお話ししてまいります。メッセージのタイトルを「ピラトの権限とキリストの権限」といたしました。それはピラトがイエス様に対して、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにはある」と言った言葉から取りました。「権限」という言葉、英語ではAuthorityになりますが、権力、支配力を表すPowerという言葉も使われます。広辞苑を見ますと、「公法上、国家または公共団体が法令の規定に基づいてその職権を行いうる範囲、また、その能力」とありました。総督ピラトにはローマ帝国の法律に基づいた権限がありましたが、イエス様にはどのような権限があるのだろうと考えるわけです。そしてイエス様の権限は、キリスト・メシアの権限であり、その権限は神様の愛に基づいたものです。そのことをご一緒に考えてゆきたいと願っています。

 

さて、イエス様が総督ピラトから尋問を受けることが18章28節から記されています。金曜日の明け方でした。イエス様を総督の所へ引き出したのは、大祭司たちを含むユダヤの最高議会であるサンヘドリンです。ピラトは大祭司たちに「どういう罪でこの男、イエスを訴えるのか」と問い、「自分たちユダヤの律法に従って裁け」というのですが、大祭司たちは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えます。目障りなイエス様をどうにか殺してしまいたいという大きな憎しみがあるのに、自分たちの手を汚してしまうと過越の祭を祝えないという身勝手さもあり、ピラトのもとへイエス様を連れてきて訴えます。

 

18章33節から、ピラトとイエス様の一対一の向き合いが始まり、二人は言葉を交わしますが、ピラトがどう聞いても、どう考えても、ピラトはイエス様に罪を見出せません。当然です。イエス様には訴えられる罪など一切ないのですから。ゆえに、38節、「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。』」と宣言するのです。これが大きな権限を持つ総督ピラトの結論なのです。

 

さて、先の衆議院選挙を前に、首相は自分と自分の政党が掲げる政策が国民に受け入れられているのか、その民意を問うと言われて選挙に臨んで大勝しました。首相にはそのような権限があるので、民意を問うたわけです。総督ピラトも同じで、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」と言った後、39節で「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」と民意を問うことであったのです。民衆は、イエスを取るのか、それとも罪を犯して収監中の犯罪人を取るのか。ピラトは、民衆はイエスの解放を望むだろうと予想していたのだと思いますが、40節、「すると、彼らは、『その男ではない。バラバを』と大声で言い返した。バラバは強盗であった。」とあります。民意は強盗を釈放し、イエス様を罪に定めて殺すということでした。

 

19章1節から7節を読みますと、ピラトは群衆と駆け引きをし、何とかイエス様に対する彼らの訴えを棄却しようとします。「1そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。2兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、3そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。4ピラトはまた出て来て、言った。『見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。』5イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。6祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』7ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』」とあります。イエス様を憎む祭司長たちは絶対に引き下がりません。

 

続けて8節から11節を読みます。「8ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、9再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。10そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』11イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』」と言われます。 この「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」というイエス様の言葉は、地上の権限は神様の前に何ら力はない、神様に権限・決定権があるということを示します。

 

皆さんの中には、イエス様の「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」という言葉に心が囚われてしまっているかもしれませんが、ユダヤ人たちの罪がもっと重い理由は、イエス様を通して神様の啓示・御言葉を聞いたにも関わらず、悔い改めることもせずに、イエス様を拒絶し、殺害しようとしたからです。その罪は重大だとイエス様は言われます。

 

12節から13節を読みます。「12そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」13ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。」とあります。イエス様を憎む者たちは、ピラトの弱点を突こうと脅迫しました。

 

14節に「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。」とありますが、この時間設定は共観福音書と違います。共観福音書ではイエス様は朝9時に十字架に付けられていますので、不思議に思われると思いますが、正午は神殿で過ぎ越しの小羊がほふられる時間帯です。福音書を記したヨハネは、イエス様がわたしたちの罪を取り除くために十字架に死なれた神の小羊であることを示したいという意図があって、「正午ごろ」と記したのです。

 

14節から15節を読みましょう。「ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、15彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。」とあります。そして16節、「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」とあります。総督としての権限があるはずのピラトが民衆の声に根負けするのです。それは祭司長たちや群衆の民意が示されたと言えるかもしれませんが、しかし、民意よりも、神様の御心がその決定の中で示されたのです。

 

最後に、イエス様の権限について考えてみましょう。イエス様にはどのような権限があるでしょうか。敢えて言うならば、イエス様は神の御子としての権限をすべて放棄されて、わたしたちを救い、神の子とするために、すべての特権、権限、御子としての身分も捨てて、十字架の道を歩んでくださったのです。

 

それでもイエス様に権限があるとしたら、それはわたしたちを愛し通してくださる権限、わたしたちのためにその命を捨ててくださる権限、わたしたちのために祈り、神様に執り成してくださる権限と言えます。わたしたちを救うという権限をイエス様は十字架上で行使された。そのような方が、イエス・キリストなのです。このイエス様を救い主と信じる者は、この地上に限定された権限・権力を求めてはなりません。わたしたちが求めるべきは、イエス様を通して与えられる神様の愛と赦しと救いです。そのような思いの中で、残された受難節を過ごしてまいりましょう。