「神はあなたを忘れることはない」 3.11を覚える礼拝 宣教要旨 2014年3月9日
イザヤ書49章8〜15節 牧師 河野信一郎
「もし神がいるなら、神はなぜ大震災と原発事故によって人々に最大級の苦痛を与えるのか」との怒りの問いが神に向けられましたが、それは災害時だけでなく、戦争や不慮の事故や病で最愛の人を失う時、理不尽な出来事に遭遇する時、人間関係で傷つき苦悩する時になされます。
被災地では家庭内暴力が深刻な問題となっています。仕事や築いてきた全てを失った男性・夫・父親のストレスが暴力・暴言となって女性・妻・子に向けられます。最も弱い子たちや高齢者や女性が更に苦しみを負って本当に良いのでしょうか? 良い訳ありません。しかし、実際に起こっており、わたしたちの家庭、職場、学校、人間関係の中でも現在進行形で起こっています。
神は、「あなたの不満、怒り、苦悩をわたしの所へ持ってきなさい」、「あなたの怒りの矛先を人ではなく、わたしに向けなさい」と云われます。その理由は少なくとも二つあります。一つ目の理由は、わたしたちが苦しい時に真剣に神と向き合い、率直な思いを神は聞きたいからです。二つ目の理由は、わたしたちが抱え込んでいる種々多様な課題の解決策を神はお持ちで、わたしたちにその道を教え、救いと平安と生きる力と希望を与えたいからです。ですから人生のピンチは、神の愛を受ける絶好なチャンスなのです。苦悩の中で神と向き合い、神を通して本当の自分を知り、人生の意味と目的を知り、生き甲斐、人生の喜びを受ける事ができます。ですから、あなたの正直な思いを神に遠慮なくぶつける時、神はあなたを愛でつつみ込んでくれます。苦しみは確かに苦しいですが、それも神の愛があなたに注がれる「恵みの時」なのです。
イザヤ書49章8節から、主なる神はわたしたちにこの様におっしゃいます。「わたしは恵みの時にあなたの叫び求めに答え、救いの日にあなたを助けよう。あなたをわたしの民とし、罪によって荒れ廃れた地を復興させ、その国にあなたを生かそう。わたしは苦しみに囚われているあなたに自由を、暗闇の中にいるあなたに光を、生きるために命の糧と力を与える。今後あなたは飢えることも渇くこともない。熱風と太陽の熱い日差しはあなたを打つ事はない」と。
10節後半に「彼ら(あなた)を憐れむ者が彼ら(あなた)を導き、泉のほとりに導かれる」とあります。わたしたちを憐れみ、泉のほとりへ導いてくれる人は神の御子であり、救い主であるイエス・キリストです。険しい山々(人生の課題)も、この主イエス・キリストがわたしたち一人ひとりと共に歩んでくださり、わたしたちを神の永遠の祝福へと導いてくださる真の「道」であるのです(11節)。
キリストによって救われた者たちが遠くから(これは東からという意味)、北から西から、またスエネ(これはエジプトの地、つまり南)から神の御もとへと集められると12節にあります。わたしたちは、救い主イエス・キリストによって救われ、神の祝福の中に入れられます。わたしたち人間が救われると天と地が喜び歌うと13節にあります。ここで大切なのは、神の愛と恵みに対して「必要ない」と意固地にならないで、素直になることです。
しかし「シオン・エルサレム」は「主はわたしを捨て、わたしを忘れられた」(14節)と云います。イスラエルが戦争に負け、エルサレムの町と神殿は破壊されたので、民は神に対して不満と怒りをぶつけるのです。けれども神は「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を憐れまないようなことがあろうか。たとい彼女らが忘れるような事があっても、わたしはあなたを忘れることはない」と宣言されます。神の愛は母の愛よりももっと強くて深くて広いのです。
神は、被災地のこと、全国に離散している被災者をお忘れになられません。またあなたを、わたしたちを決してお忘れになられません。忘れないどころか、いつも共にいてくださいます。
神は、なぜわたしたちを救い、これからも救い続けたいのでしょうか? それは今もなお痛みや苦しみ、不安と失望の中にいる人々に寄り添い、心から仕えてゆくためです。ですから、わたしたちはうつむいた顔を上げ、神の愛に感謝し、被災地にある方々、そこに立てられている諸教会のために今わたしたちにできることを精一杯なしてゆきましょう。まずは、愛と憐れみに富まれる主なる神にイエス・キリストの御名によって祈ることから始めましょう。