愛によって互いに忍び

『愛によって互いに忍び』 三月第三主日礼拝 宣教要旨  2014年3月16日

エペソ人への手紙4章1-3節     副牧師 石垣茂夫

エペソ人への手紙は、1章から3章までが一区切りとなっています。この中でパウロは「教会こそ、神がキリストによって、ご自身の働きをなさる場所」と言って来ました。

噛み砕くように、あなたがたは「神の作品」、「神の家族」、「神の住まい」と、教会とそこに集うわたしたちを表現し、終わりに、「神は、そのわたしたちを通して働かれる」とさえ言いました。ここで、わたしたちが毎主日の礼拝に参与している意味を明らかにしたのです。

3章までで、あなたがたは、祝福されて神の栄えのために働く特別な者であると勧めてきました。そこで4章は、「パラカレオー」「あなた方に勧める」という言葉で始まります。

神に祝福されて招かれているならば、その招きにふさわしい生き方があると、パウロは4章以下で語っていきます。『召されたその召しにふさわしく歩きなさい』(4:1)、この「召される」という言葉は「呼ばれる」という意味で、「わたしたちは神に呼ばれて集められた者」という意味の「教会」を表わす言葉の語源でもあるのです。

神に呼ばれた者に相応しい生き方とは「謙虚、柔和、寛容、愛をもって互いに忍びあい、聖霊の一致を守るように務める」ことだと、パウロは最初に勧めます。この四つの言葉は大変控え目であり、わたしたちが大決心をして取り組もうという事柄ではないでしょう。むしろ、普段の生活の中で向き合い、互いに心がけていることではないでしょうか。

しかしその一方で、『謙虚、柔和、寛容、愛、・・・』、これは、そう簡単なことではないと感じる、そのような一面を持つ言葉でもあります。

この四つの言葉は、聖書に、このように記されて広まった言葉であるそうです。特に「謙虚」と「柔和」は良い意味で使われていなかったというのです。 「謙虚」は弱腰の人や、奴隷(僕)の低い態度に使われていました。「柔和」は動物に対して『柔和なろばの子に乗って』と使われ、ひたすら主人に仕える従属的な態度を表わす言葉でした。

マタイ福音書11章29節に「わたしは柔和で心のへりくだった者である」という、主イエスの言葉があります。わたしたちが自分を、このような言葉で伝えることはありません。主イエスのこの時の言葉の使い方は、主イエスにしかできなかったことを言い表わそうとなさったのではないかと、わたしには思えてきました。

ピリピ書2章に次のような言葉があります。「キリストは神と等しくあることを捨てて、僕の立場に身をおかれ、十字架の死をさえ忍ばれました」。謙遜と柔和とは、この僕の姿です。主イエス・キリストが全生涯をもって示されたのが、『謙虚、柔和、寛容、愛』でした。

父なる神も、その独り子をさえ惜しまなかったことで、わたしたちへの謙遜と愛を示してくださいました。わたしたちはそのような神に、今、出会わせていただいています。「父と子の神」の、僕のように低くなられた姿を見上げ、わたしたちが出会う様々な場面で『謙虚、柔和、寛容、愛』へと導かれ、この「レント」の期間を歩ませていただきましょう。