「主イエスが復活された夕方」 四月第四主日礼拝 宣教要旨 2014年4月27日
ヨハネによる福音書20章19〜23節 牧師 河野信一郎
主イエスのご復活をお祝いする先週のイースター礼拝では、イースターの朝に何があったのかをお話ししましたが、今回はその日の夕方に何があったかをお話ししたいと思います。
19節に「夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めていた」とありますが、この内容はとても滑稽(こっけい)です。何故なら、ユダヤ人を恐れていた弟子たちの大半もユダヤ人であったからです。けれども、弟子たちは他のユダヤ人たちを恐れていました。何故でしょうか? それは、民族性においてではなく、性質においてすでにユダヤ人ではなかったからです。キリスト・イエスの言葉と行いと愛によって、彼らは神に変えられつつあったからです。弟子たちは、キリスト・イエスを通して神の愛を体験し、信じていました。彼らが恐れていたユダヤ人たちとは、「神を信じている、仕えている」と云いつつも、神の愛を体験したことのない人たち、キリストを十字架に架けて殺してしまった人たちです。
イエスの弟子たちは、最愛の師を失って絶望していました。また「自分たちも囚われて殺されるかも」という恐怖の中にいた訳です。しかし、そのような彼らの中に復活された主は入って来られ、真ん中に立たれて、「安かれ・平安あれ」とおっしゃいます。絶望と恐怖の只中にいた弟子たちに、「安心しなさい。わたしはここにいる。神の平安を受けなさい」と励まされます。
もしあなたが幸いな人生を送りたいと心から願うならば、この復活のキリストを信じて、この主を通して神の平安を受け取る必要があると聖書は語ります。わたしたちが恐れ、痛み、苦悩し、そして最終的に死を迎えるのは、神との和解、平和がないからであると聖書は明記します。けれども、この「平和」を与えるために神は御子イエスをこの地上にお遣わしになり、十字架に架けてわたしたち罪人の罪を帳消しにしてくださいました。そして永遠の生命をわたしたちに与えるために、神はイエス・キリストを死人のうちから甦らせてくださいました。
「安かれ」と言って、主イエスは「手と脇とを彼等にお見せになった」と20節に記されていますが、御手と脇の傷はわたしたちに対する主イエスの愛を表す印です。その御傷を見た弟子たちは「主を見て喜んだ」とあります。その時はじめて、弟子たちは復活された主を信じたのです。真の幸いな人とは、キリスト・イエスを通して大いなる神の愛と憐れみを体験し、主を救い主と信じ、救いを喜ぶ人でありますが、もう一つ幸いな人には大切な違いがあります。
それは、自分の存在理由と人生の目的を、キリストを通して知り、その人生の目的、使命に喜んで生きるということです。主イエスは、21節で「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」と派遣の言葉を発せられました。復活の主は、弟子たちを主のご用のために用いられるのです。父なる神と救い主のご用のために用いられる、それがわたしたち神に創られ、生かされ、愛を受けている者の地上での使命なのです。
けれども、わたしたちは意志薄弱であり、優柔不断です。精神的にも、肉体的にも、弱く小さな存在です。ですから、主イエスは「聖霊を受けなさい」と23節でおっしゃって、弟子たちに、わたしたちに神の息・聖霊を吹きかけられるのです。神は、主イエス・キリストを通して神のご愛を、御力をわたしたちの心に惜しみなく豊かに注いでくださいます。それ程までにわたしたちは神に愛されています。神の目には、わたしたちは高価で尊いのです。キリストがわたしたちの罪のために十字架で死なれ、3日後に甦られた。それはわたしたちに永遠の生命を与えるためであったということを喜び、感謝し、共にこの福音を人々に伝えてゆきましょう。