信仰に喜びを

『信仰に喜びを』  七月第三主日礼拝 宣教要旨  2014年7月20日

聖書:ピリピ人への手紙1章20~26節(口語訳) 副牧師 石垣茂夫 

『 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。』ピリピ1:25

パウロの宣教の活動は、三回の宣教の旅として使徒行伝に記されています。それは多くの困難を伴う辛い旅でありました。その中で最も辛かったのは何であったと、思われるでしょうか。

多くの方が、それは同胞のユダヤ人による集会への妨害ではなかったかと言われます。

ユダヤ教徒とユダヤ人キリスト者たちは、パウロのどの集会にも付きまとって現れ、説教するパウロを妨害しました。そしてパウロが居なくなると、教会を訪れ、信徒の信仰を揺るがしていったということです。発足して間もない教会のこの事態をパウロは一番心配しました。

そのような中で、ついにパウロは、不当な訴えをされて捕えられ、投獄されてしまいました。

この時代には、宗教が理由で捕えられ処刑されるということは、ごく普通になされることでしたので、当然、パウロは死の覚悟をしていました。しかし一方では、許されるならば生きていて、彼らともう一度、一緒に働きたい。わたしも「共に喜びたい」と願うようになったのです。絶望的と思えた獄中で、パウロは「ピリピの人々の信仰が進歩し、喜びになる」(1:25)ようにと祈り、そのために再び、共に働きたいと願うようにさえなりました。

迷うパウロを支え、一つの決断を与えたのは、第二回の宣教でギリシャで始まり、変わることなく、パウロを支え続けてきたこのピリピの教会の存在でした。彼らとの親しい交わりが、この牢獄の苦しみからパウロを解放していき、牢獄から「喜びの手紙」を書く原動力となったのです。

パウロは今、思ってもいなかった境遇に置かれています。翻ってわたしたちは今、自分が望んできた仕事をしているでしょうか。あるいは自分が思い描いた境遇にあるといえるでしょうか。わたしたちの中に、「そうだ」と言える方は稀なのだと思います。皆、課題を抱えています。

ところでパウロはそのような境遇を、どう導かれて乗り越えたのでしょうか。ピリピ2章17,18節に「共に喜ぶ」という言葉があります。「共に喜ぶ」ということは、教会の礼拝と交わりを除いてどこで出来るのでしょうか。わたしたちの信仰を進ませ、その喜びを得させるのは教会の礼拝と交わりにおいてこそなされるのではないでしょうか。

少し前に、しばらく礼拝にお見えにならない方とお話する機会がありました。その方は、どうも礼拝に行こうという力が湧いてこない、なぜだろうと思うことがあると、ご自分の方から話し始めました。一つのことは、教会に友がいないことだと言われました。そして、「いない」と、他の人に責任をなすりつけるのではなく、自分がそうした交わりを持とうとしてこなかったことに原因がある。そのように話しておられました。パウロは、信仰は進むものだ、深まるものだと教えてくれています。それはやがて「キリストにある喜び」に、わたしたちを招いてくれると言っています(1:25)。パウロは、この恵みこそ、教会の礼拝に於いて、教会の交わりに於いて与えられると、わたしたちにこの朝、教えているのではないでしょうか。

いまこそ、信仰を進ませ、喜びを与えられることを望みましょう。そして直面する課題を克服させていただきましょう。そのために、日々互いに仕え合ってまいりましょう。