主の恵みに応えて生きよう

「主の恵みに応えて生きよう」 新年礼拝  宣教要旨  2015年1月4日

コロサイ人への手紙1章21〜23節      牧師 河野信一郎

 新しい年を歩み出す中で、コロサイ1章21節から23節の御言に聞きます。21節では、コロサイの信徒たち、そしてわたしたちがイエス・キリストを信じて従う前の状態が語られています。信じる前とは、悔い改める前の状態という意味で、使徒パウロはわたしたちが「神から離れて悪い行い」をする存在、また「心の中で神に敵対する存在であった」と云っています。

 「神から離れて」いるとは、「神の恵み・祝福の外側にいる」状態という意味です。「悪い行いをもって離れた」とありますが、「行い」は心に思った事や感じた事が行動に直接出る訳ですから、その心が「神に敵対していた」とパウロは云います。「神に敵対して生きる」とは、「自分勝手に神を無視して生きる」ということです。神はわたしたちを造り、わたしたちがどのように生きて欲しいのかという御旨がそれぞれにありましたが、それらを完全に無視して自分の思い通りに生きることが神に敵対することであり、罪を犯し続けて生きる状態です。

 神は、罪人であるわたしたちを滅ぼすことも出来たのですが、そのような選択肢は最初から神にはなく、わたしたちを憐れんでくださって、御子をこの世に遣わしてくださることによって救いの御業を開始し、罪の贖いの供えものとして主イエスを十字架に付けてくださいました。

 「しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ」と22節にあり重要点が二つあります。1)主イエスはご自身の身体を犠牲にし、その死を通してわたしたちを神と和解させてくださった。2)主の死を通してわたしたちの罪は贖われたという真実です。主の晩餐式の中で分かち合われるパンは主の裂かれたからだを表し、ぶどうの汁は十字架上で主が流された血潮を表します。主がわたしたちの罪を全て負って十字架に死んでくださったのは、わたしたちを神と和解させ、わたしたちを聖なる、傷のない、責められるところのない者として神の御前に立たせてくださるためであったとパウロは云っています。

 神の一方的な愛と憐れみと赦しを恵みとして感謝して受け止め、今までの歩みを悔い改めてゆけば良いと福音はわたしたちを招きます。恵みを受け取り、悔い改め、主イエスを救い主と信じて従ってゆくようにと招かれています。主イエスを心に受け入れることによって「信仰」が神から与えられ、この信仰を持ち続けることがわたしたちに重要なことなのです。

 信仰が与えられますとすぐにサタンがわたしたちの信仰を破綻させようと攻撃してきます。色々な方法で信仰を揺さぶってきて、躓かせようとします。この新しい一年も毎日のように戦いやチャレンジがあるでしょう。しかし、主イエスがいつも共にいてわたしたちを助け、守り導いてくださると信じて、その恵みに踏みとどまり、主の恵みに応えて生きましょう。

 「あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないように」と23節にありますが、わたしたちはそのためにどう生きれば良いのでしょうか。それは「聖なる、傷のない、責められるところのない者として」生きることを心がけ、主の助けを祈り求めるのです。「責められるところのない者」というギリシャ語は「誠実な者」と訳せます。つまり、主には忠実に、人には誠実に、そして自分には信実に生き、福音のために生きてゆくことが主の恵みに日々応えて生きることと示されます。

 もっと具体的に申しますならば、1)礼拝をささげること、2)神との交わり(聖書と祈り)、3)神の家族との交わり、4)兄弟姉妹と共に教会を建て上げてゆくこと、5)そして神の恵みに生かされていることを証しし、キリストの福音を伝えてゆくこと。この5つを大切にしましょう。