「キリストの愛に捕えられて」 2月第三主日礼拝 宣教要旨 2015/02/15
ピリピ書3章10-14節 副牧師 石垣茂夫
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
わたしたちは様々な人間関係の中に生きていきます。「人間」とは実にうまい表現です。その関係は、うまくいくこともありますが困難な場面に落ちることもしばしば起きてきます。そこでの問題は、これで完結ということは無く繰り返され、わたしたちを悩まします。
信仰もわたしたちと神との関係であり、こうしたこの生きた関係のなかには,これでよい、これで終わり、これで完成ということは無いとパウロはとらえていたようです。
「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているという事でなく・・・」とは確信のなさから出た弱音ではなく、「わたしはそれをすでに得た、わたしは完全だ」と主張して、教会を惑わして指導している相手を、柔らかく追い込んでいきます。
パウロは、時には強く出ますが、このピリピ書のパウロは非常に謙遜です。これは他の、使徒と呼ばれる弟子よりも、はるかにキリスト体験が少なかったからなのでしょうか。.
それでは、パウロは何か雲をつかむような思いで、信仰の歩みをたどっていたのでしょうか。
なぜパウロには、求め続ける信仰の歩みが出来るのでしょうか。
パウロの信仰者としての姿、それは「キリスト・イエスによって捕えられている」というひと言に表わされています。自分が捕えて迫害しようとしてきたイエス・キリストが、逆に自分を捕えたことを知ったのです。パウロはこのとき、自分に対しての神の熱意が先にあり、神の決心が先にあったと確信できたのでした(使徒行伝9章)。
今年の1月の事でしたが、詩人・吉野(よしの) 弘(ひろし)さんのニュース番組がありました。一時期、国語の教科書にも掲載されたほどの詩人だったということで、吉野さんの書いた詩が紹介されました。どれも心の優しい方だと思わせる詩でした。その中に“I was born”という詩があります。日本語にすると「わたしは生まれた」となります。英語を習い始めた時の印象深いフレーズです。その詩はこういう内容です。
“英語を習いたての中学生が“I was born”という英語に関心を持った。
日本語にすると「わたしは生まれた」となる。でも、英語はちょっと違うと、中学生は気付いた。生まれるということは自分の意思ではないのだ。I was born”とは「生まれさせてもらった」という受身形だ。生まれるということは自分の意思ではないのだ。“
第一ヨハネ4:10に次の言葉があります。
「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」。信仰においては、わたしたちは全く受け身です。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さったのです。その愛とは、神の独り子が血を流すほどの愛でした。