イエス・キリストにつながる恵み

「イエス・キリストにつながる恵み」  四月第一主日礼拝 宣教要旨  2016年4月3日

ヨハネによる福音書 15章1〜17節       牧師 河野信一郎

16年度は、「つながろう つなげよう 主イエスさまに〜みんなが喜びに満たされるために〜」という年間標語を掲げ、ヨハネ福音書15章4節を中心に1節から17節までのみ言葉に聴き従ってゆきたいと願っています。この15章は、十字架を目前にした主イエスが弟子たちに語られた重要な箇所で、前半は主イエスと弟子たちの関係性について語られる箇所です。

主イエスは1節で「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言われますが、「まことのぶどうの木」があるということは「偽りのぶどうの木」もあるのかということになります。旧約聖書では、イスラエルをぶどうの木に例えている箇所が多くあります。(参照:詩80:8−16、イザヤ5:1-7、エレミ2:21、エゼキ15章、19:10、ホセア10:1) ところがエレミヤ書2章21節を読むと、「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうしてわたしに背いて悪いぶどうに変わり果てたのか」と神がイスラエルに対して嘆いておられます。ですから、主イエスは「わたしがまことのぶどうの木」とおっしゃり、「わたしこそが父なる神が喜ばれる良い実を結ぶぶどうの木です」とおっしゃるのです。

ここで主が語られる言葉に私たちが心を留めるべきこと、それは神が喜ばれる実を私たちが結ぶということを神と主イエスは期待されているということです。ただ単に、私たちが自己満足する実を結ぶということでは決してないのです。また、もし実を結ぶことが私たちの人生の目的、使命、存在理由であるならば、最高の実を可能な限りたくさん結びたいと誰もが願うでしょう。そして美味しい実を結びながら生きることが自分の喜びだけでなく、友や隣人を喜ばし、神をも喜ばせるならば、それこそ一石三鳥であり、喜びと感動も3倍です。

しかし、果たしてどのようにしたら、神の喜ばれる実を豊かに結ぶことが可能なのでしょうか。答えは、主イエス・キリストにあり、キリストの言葉、15章4節と5節にあります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていねければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と主はおっしゃる。

弟子たちの今後の信仰生活を考え、「人生の中でこれからも様々な苦難があるだろうが、神に喜ばれる実を結ぶためにわたしにつながり続けなさい」と招かれるのです。「わたしはいつもあなたの傍にいてあなたを助けるから、わたしの手を握り続けなさい」と励ますのです。

まだ弟子として歩み出していない人にも「わたしにつながりなさい」主イエスは招き、救いと祝福の御手を差し伸べられるのです。「自分の力はあなたを喜ばすことはできても、神が期待する実を結ぶことはできない。わたしがいつもあなたの傍にいて助け、あなたの必要を満たし、実を豊かに結ぶために力を与えるから、わたしを信じてわたしにつながりなさい」と招いておられます。この恵みの招きにぜひ応えてほしいと願います。

11節で主イエスは「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃいました。主の招きに応え、主イエスにつながり続けることが、私たちに大きな喜びをもたらす主の恵み・祝福なのです。