「実を結ばせるために神は」 四月第四主日礼拝 宣教要旨 2016年4月24日
ヨハネによる福音書 15章1〜6節 牧師 河野信一郎
過去2回の宣教の続きですが、今回は2、3、6節の主イエスの言葉に焦点を当てます。
まず主が3節でおっしゃった「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」との言葉に注目します。「わたしの話した言葉」とは、過去3年間の宣教活動の中で主が弟子たちに語って来た教えであり、成して来た数々の御業も含まれると思います。ここで重要なのは「あなたがたは既に清い」という主の宣言で、これは当時の弟子たちだけでなく、私たちにも宣言されている言葉であり、まだ信じていない人たちへの「清くなりなさい」との招きの言葉のように聞こえます。キリスト・イエスを信じて従う者は、その信仰の歩みの中で清められてゆきます。大切なのは、そのように宣言してくださる主を信じる事です。
では、「清くされている・清くなる」とは、どういうことでしょうか。清くなれるものならなりたいと誰もが思うでしょう。そのためにお金や時間と努力を惜しみなく使う人もいるわけですが、ここで主イエスがおっしゃる言葉には2つの真理があると思います。
一つは、この後に主が受けられる十字架での贖いの死と復活を信じる信仰によって私たちは清くされるということです。キリストの福音は、誰でもこの主の十字架の死と復活は自分の罪の赦しと永遠の生命を得させる愛の御業であると信じる信仰によって救われ、清められるということです。ただその良き知らせを信じるだけで救われ、清められ、恵みのうちに神の御前に義とされるのです。お金も時間も努力も必要なく、ただ信じて従えば良いのです。
もう一つの真理は、「清くなる」という3節の言葉をギリシャ語で見ますと、農夫である神が「手入れをされる」との2節の言葉と同じ語源があり、親密な関係があるということです。「清い」はカサロスで、「手入れ」はカサイロです。ですから、主の言葉によって清くされるということは、神によって手入れ・剪定され、必要なものは残され、不必要なものは取り除かれるということです。主イエスは2節で、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れされる」とおっしゃいました。この主の言葉に心に留めるべきことが3つあります。
1)神は私たちが実を結ぶ事を期待されていて、そのために何か特別なことをしなければならないのではなく、ただ主イエスにしっかりつながってさえいれば、実を結ぶために必要なすべては主イエスを通して神から与えられるということ。2)私たちが豊かな実を結ぶために神御自身が手入れをされ、私たち枝を整えてくださるということ。3)剪定は確かに大きな痛みが伴いますが、主イエスも私たちと共に痛んでくださるという主イエスの御愛です。
「剪定」とか、「取り除かれる」という言葉に捉われ、またその事に恐れるのではなく、神には確かなご計画があると信頼し、全てを委ね、そして豊かな実を結べる事を期待し、実を結ぶことに集中しましょう。大切なのは主イエスにしっかりとつながり続けることなのです。
主は6節で「わたしにつながっていなければ、枝のように外に投げ捨てられて枯れ、集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう」と言われます。枯れた枝は蒔き意外に何の役に立ちません。切り離されて枯れてしまった枝に自分を重ね見る人はおられるでしょうか。しかし、その事で失望してはなりません。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」という主イエスの約束の言葉を信じて、主につながり続けて歩みましょう。