「実を結べるように祈り求める」 五月第一主日礼拝 宣教要旨 2016年5月1日
ヨハネによる福音書 15章1〜7節 牧師 河野信一郎
人はみな、誰でもが「幸せになりたい」と強く願っていると思います。そして幸せになるために、幸せになれるのであれば、努力や少々の犠牲をまったく惜しみません。お金や時間のある人はそれらを惜しみなく使います。しかし、わたしたちはその願いに反して行き詰まりを感じることが多々あり、自力ではどうすることもできない状況に置かれることがあります。努力が報われないばかりか、その努力が人に誤解されたり、妬まれたり、焦って失敗したり、些細なことで嫌悪感を抱いたり。病を負ったり、家族が病に倒れたり。お金も保証も何にもなく、あるのは疲労と不安だけ。そういう悩みや迷いをもって日々生きています。
そのような状況に陥ったときに「助けて!」と叫べる人は助かるでしょう。しかし、どうしても叫べない人もおられます。援助を求めることを恥ずかしいことと勘違いをしているのでしょうか。しかし、わたしたちは、神の憐れみのうちに、救い主イエス・キリストを通して創造主にしてすべてを治められる神に祈ることができる恵みへと招かれています。
7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とのキリストの言葉があります。ここに主イエスに更にしっかりつながる2つの方法が記されています。
それは、「主イエスの言葉を蓄える」ことと、「主イエスを通して神に祈る」ことです。聖書を読むことと祈ることを欠かさずになしてゆけば、神は祝福を与え続けてくださるのです。聖霊の助けを受け、御言葉と祈りを通してわたしたちは養われ、成長し、実を豊かに結ぶ事ができるように主がしてくださいます。わたしたちに大切なのは、主イエスとの親しい交わりを持ち続けるということです。主イエスがおっしゃる「わたしの言葉」とは「主イエスの御心」です。主イエスと日々を過ごしてゆきますと主の御心を感じやすくなり、その御心に沿った歩みをしてゆくようになります。そうなりますと、わたしたちは身勝手なお祈りをしなくなり、「御心に沿って生きることができるように」と祈り求めてゆくようになります。そして、そのような祈りに神は必ず応えてくださる。その恵みがここで約束されています。
わたしたちは「望むものは何でも願いなさい」とここで招かれています。しかし、わたしたちが望むものはいったい何であるのか、どのようなものであるかをよく考えなければなりません。そしてそのように考える基準は、願い求めるものは「わたしを喜ばすもの」ではなく、「神を喜ばすもの」であるかどうかということです。主イエスにしっかりつながっていれば、わたしたちは聖書の御言葉と祈りを通して何が最もわたしたちに必要なのかを導かれ、教えられます。そして神と主イエスの御心がはっきりと分かるようになると、自分の力で物事を成し得ようとジタバタすることを止めるようになり、心に安らぎ、平安が与えられます。そして主なる神がすべてを良きに取り扱われると主に信頼することができ、喜びに満たされ、神の望まれる実を信仰生活のうちで結ぶ事に集中することができるようになります。
ですから、目まぐるしい日々を歩む中にあっても、聖書を読むこと、そして主イエスの御名によって神に祈ることを大切にし、このために時間を特別に分けて(聖別して)ゆきましょう。神は、この交わりを大切にしてゆく人を必ず祝福されます。11節で「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしの喜びで満たされるためです」と主イエスは言われます。感謝!